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「ボランティア通信」 バックナンバー

連載「ボランティア通信」

ボランティア通信のバックナンバーを公開しています。

2012年5月

 戦 時 中 の 収 容 所
ボランティア 松田 潤治郎

 1941年12月、日本海軍のハワイ真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まりました。当時アメリカに移住していた日本人及びその子孫である日系人と、その家族は、敵性外国人として翌年、収容所に送られています。あれから本年で70年になります。
 海外移住資料館では展示「海外移住の中断」コーナーで、戦時中における海外移住者と家族の状況の一部を、年表と解説、写真や展示品等で紹介しています。収容所については雪景色のマンザナー、発表会をしているポストン、スケッチで描かれたハートマウンテン等の収容所の写真や、トゥールレーク収容所で編集された文芸雑誌「鉄柵」、モノタイププリントされたトパーズ収容所の風景画カード等の作品が展示されています。これらの収容所は、1942年5月から10月までの間に全米で10か所が開設され、11万数千から約12万近くの人たちが収容されたといわれています。
 他にも展示コーナーには収容所に送られて行く、毅然としたおじいさんと子供さんの姿を映した写真があり、胸には白い名札がさがっています。この名札には家族番号が書かれていて、名前ではなく番号で呼ばれていたようです。
 これらの写真や展示品のところには、英語の小さな活字で「concentration camp」と表記されています。「concentration camp」は英和辞典では「強制収容所」を意味し、一方、合衆国の戦時中の収容所は「war relocation camp」が合衆国政府による正式な名称であり、邦文名は戦時転住所とされています。写真家宮武東洋氏がマンザナー収容所で撮影した写真集「宮武東洋の写真」の中に、「MANZANAR WAR RELOCATION CENTER」や、「MANZANAR WAR RELOCATION AREA」と撮影された看板がありました。また2011年2月から3月に当館で特別展示を行った、画家ヘンリー杉本氏がジェローム収容所で描いた絵画「サヨナラご機嫌よう Farewell」でも、「JEROM RELOCATION CENTER」の看板を見ることができました。
 そこでなぜ「concentration camp」の表記なのかですが、まず海外移住資料館に展示されている強制収容所の写真の収集先(入手先)の一部が全米日系人博物館であり、同博物館が「concentration camp」を採用していることにあります。それには当初から合衆国政府の中や、日系人の間でも「concentration camp」を使っていたり、そのように話されていたという事実があるという指摘を、同博物館Q&Aなどで知ることができます。
 さらに「war relocation camp」では、「悲惨で過酷な強制収容所の本当の意味が伝わらない」ことや、当時の日系人とその家族の思いを、そのまま伝えようとして、あえて「concentration camp」としているのはないかと、教えていただいたのは北米研究で著名な飯野正子先生でした。
 「concentration camp」には「強制収容のことを忘れてはならない」と同時に、「もう二度とこのようなことが繰り返されないように」という、北米日系人の思いが込められていることも理解することができました。また、展示表記にある「concentration camp」については、全米日系人博物館採用の背景にある事実や北米日系人の思いなどとともに、後に合衆国政府が日系人に謝罪し補償していることなどもあわせ、来館者や学習者に理解しやすい説明で、伝えていくのがいいのではないかと考えます。


2012年2月

 ローズ・フェスティバルと野菜山車
ボランティア 松田 潤治郎

 海外移住資料館入口正面には、野菜の山車(Vegetable float)が展示されています。この野菜山車は1920(大正9)年アメリカ・オレゴン州ポートランド市で催された、ローズ・フェスティバルに参加したもののレプリカです。
同市近郊の日本人農家が、自分たちが生産していた蔬菜類や果実などを飾り付けたもので、産業B部門(動力車で牽引)で一等になったといわれています。
当時の映像や写真資料と現地取材をもとに再現したものです。
ポートランドにおけるローズ・フェスティバルは、1905(明治38)年に第一回が開催され、日本人による山車も参加していたようです。もともとバラの都といわれるほどバラ栽培が盛んで、毎年6月10日ごろに開催されてきています。それらの生産物を本物そっくりに美しく飾り付けられた山車ですが、山車から少し離れて見上げると、屋根がアメリカ合衆国の国旗になっているのが分かります。48個のポテトが星に代わって、当時の州の数をあらわしています。
展示案内で、ときどき「それでは現在の州の数は」とか、屋根の両面について「こちらがアメリカの星条旗なら、反対側の屋根は何を表したものになっていたと思いますか」など、お客さまに話しかけてコミュニケーションをとるきっかけにすることもあります。
もちろん1959年に49番目にアラスカ、ハワイが50番目の州になり50州で、現在の星条旗の星は50個が並んでいます。反対側の屋根については、後ろ側に行かないと見えないのに、皆さんが日本の旗、日の丸、日章旗と答えられます。確証はないのですが、たぶん日米友好を表していたのではないかと、ここでは日の丸になっています。おもしろいことに、これまで一人として、これと違った答えをされた方がありません。
ただ、当時のアメリカでは排日感情が激しく、偏見や嫌がらせなど日系人には非常なアゲンストな時代であったことを、文献や資料で知ることができます。その後日本人は帰化不能外国人とされ、4年後の1924(大正13年)には排日移民法が制定されました。太平洋戦争後の国交回復まで、新たな日本移民の渡航は絶たれたのです。
そんな状況の中でイチゴやポテトとともに多くの蔬菜類が、日本人農家によって生産され、その品質も高く評価されていました。限られた地域社会とはいえ、これだけの食糧供給をしていることを野菜山車で示したことは、相当インパクトがあったことも事実でしょう。
アメリカやブラジルなど多くの移住先国で、日本人移住者が農業分野で貢献してきたことは、それぞれの国や地域社会で高く評価され信頼を得ています。このようなメッセージを伝える意味で、この野菜山車は海外移住資料館の象徴展示にもなっているのでしょう。



2011年11月

  開館以来の最高齢ガイド、沼田信一氏 
ボランティア 大橋輝美

 ブラジルのニッケイ新聞を拾い読みしていたら“パラナ州開拓先亡者慰霊祭、沼田さん開拓の歴史語る”の見出しが目に飛び込んできました。「移民の日」の6月18日、同州ローランジア市、パラナ移民センターの開拓先没者慰霊碑でしめやかに挙行された日本移民103周年慰霊祭の記事です。慰霊法要の読経、参列者の焼香などが行われ先人の霊を弔いました。2008年には日本人移住100周年記念式典が盛大に行われましたが、その後も慰霊祭は毎年行われています。
 ここに登場する沼田信一氏は知る人ぞ知るあの信ちゃんです。
  海外移住資料館常設展示場の一角『移住者のなりわい』コーナーで、開館以来1日も休まず案内ガイドを務めておられます。そうです、初期移民がコーヒー農園や原始林開拓で働くときに使われた農機具の展示、その由来をディスプレイで説明しています。初期移民は入植の時期や場所が違っても大方の人たちが使った貴重な5つの農機具があったということです。
それは @フォイセ(なた)Aエンシャーダ(除草鍬)Bラステーロ(やつで・まめかき)Cペネイラ(ふるい)、それにDプランタデイラ(播種機)です。
  展示されているこれらの農具を手に触れて、沼田さんの説明をお楽しみください。農具の素材や形状など使用目的に合わせて工夫されており、使い方の説明もあります。
  私はJICA日系社会シニアボランティアとしてパラナ州に赴任した折に沼田さんとお会いしたことが有ります。その時、長年取り組んで来られた移民関係の貴重な資料と「パラナ州開拓神社(仮称)宝物・五種の神具」のレプリカをいただきました。
  これにはラステーロの代わりにマシャード(まさかり)が並んでいます。これを加えると6つの農具ということになります。いずれにしても移民にとって貴重な農具であったことは間違いないでしょう。 当時、パラナ日伯文化連合会の役員一同の賛同を得て神具としてパラナ開拓神社に祀ることになったとの資料もいただいています。
  沼田信一さんは 大正7年北海道札幌市に生まれ、昭和8年7月家族と共にブラジルへ、セッテバーラス植民地へ入植して原始林の開拓に着手。その後ロンドリーナへ移転し、ローランジアで事業を拡大し、現在はロンドリーナに居住。一貫してサトウキビ、大豆など農業経営に従事されました。
  一方沼田さんは早くから日系社会の重要な立場で幅広い活動を行い、移民80周年,90周年、そして100周年祭典へ、毎回各地を奔走して募金活動の第一線に立ち、祭典成功の功労者でした。ローランジアにはパラナ州移民史料館の建設、移民小屋の再生、パラナ開拓先没者慰霊碑とパラナ開拓神社の建立、移民像や日本庭園造成などにも貢献されました。また、パラナ日伯文化連合会教育委員長として継承日本語と日本文化の普及に取り組まれたことも特筆しなければなりません。それらの功績をたたえて、ロンドリーナ市名誉市民賞(平成6年)、日本国外務大臣表彰(平成7年)、平成20年には日本国旭日双光賞を叙勲されました。
  入植後の体験を「信ちゃんの昔話」と題するシリーズ、第1部「カフェーと移民」から第10部「ジャングルと移民」まで10冊(372話)を刊行し、平成14年「コロニア文芸賞」を受賞されました。
  第十部「ジャングルと移民」の序文に、谷川 悟さん(当時のパラナ州日本移民史料館館長)が次のように書いておられます。
 “自分の歩んで来られた過去を真摯に見つめなおし、おごりも誇張もなく淡々と、そしてむしろ楽しそうに文章にまとめられているのです。普通、開拓の昔を語る文章を書く場合、そのつらかった面ばかりを誇張して表現しがちなものですが、沼田さんの文章には、そうした暗さを全く感じさせない何かが有るのです。従って読み手の側も読み始めたらその面白さに引きこまれ、つい一気に読みとおしてしまうと言う楽しみが有るでしょう。”
  移住生活の泣き笑いが故牛窪 襄 氏の軽妙な挿絵と併せて映画のように伝わってきます。ぜひご覧ください。
  なお、他にも次のような沼田さんの著作や資料が移住資料室に保存されています。
・日本人が開拓した植民地の数々・整理 第1号〜第7号
・日本ブラジル移民百周年記念創作かるた 
・教育カード(五十音)
・御愛嬌ブラジル開拓いろはかるた新開地(にごり字編)
  沼田さんは 2007年6月に来日し、海外移住資料館へお迎えしたことが有ります。もう一度日本へ行く用事があると言っておられましたが、今年で御年92歳の沼田さんの来日が実現して、「入植後35年かけて、長さ700キロ、幅200キロに及ぶ土地を拓いた」体験談を聞かせていただきたいものです。
  信ちゃん、奥様のそとえ様、いつまでもお元気で!

2007年6月、海外移住資料館を
訪れた 沼田信一、そとえ夫妻
農具を説明するディスプレイの前に立つ
沼田さん

2004年につくられた5種の神具のレプリカ

「信ちゃんの昔話」シリーズ

 


2011年4月

  ララ物資 
ボランティア  大木 彌智子

 2010年7月より展示ガイドとして活動しています。私は4〜5年前、来館者のひとりとしてはじめて海外移住資料館を訪れ、その際に見た「ララ物資」についての展示がとても心に残っていました。その後も何度か3階のカフェテリアを利用したり、資料館を見学したりする機会があり、当時、資料館でボランティアを募集していることを知ってすぐに応募しました。 私が子どもの頃に学校給食で食べていたコッペパンや、特に、匂いが嫌で文句を言いながら飲んでいた脱脂粉乳の思い出は、幼いころの戦後体験として私の中にいまも印象深く残っています。当時は知る由もありませんでしたが、それが、日本から海外へ渡っていったたくさんの移住者、日系人の方々の「想い」「まごころ」の結晶だったことをこの資料館で改めて知り、涙が止まりませんでした。戦争により、移住先で差別的な扱いを受け、辛く大変な思いをしてきたはずの移住者のみなさんが、自分たちのご苦労よりも、敗戦国となった祖国日本の心配を優先し、援助の手を差し伸べてくれたことは、すごいことだと思います。心配したり、援助したいと「思う」だけであれば簡単かもしれません。でも、それを実際に実行するというのは、とても大変なこと。「ララ(LARA=Licnsed Agencies for Releif in Asia: アジア救済公認団体)」は、敗戦で自信を失い、貧しく混乱していた日本への援助を、6年間にもわたって続けてくれたのです。「ララ物資」の送り出しや受入が、当時、綿密に組織だって行われていたということに、驚きと感動を覚えます。 資料館のボランティアとして展示ガイドをさせていただくようになり、私自身がいま、改めて日本人の海外移住の歴史を紐解く作業を行っています。「ララ物資」についての展示は、資料館全体から見れば小さなコーナーではありますが、移住者・日系人の結束力や実行力、祖国への温かい想いに感謝し、自分たちが「できる時にできる事を、まごころを込めてする」ということの、とてもよい手本となっていると思います。 来館者のみなさんには、私自身の思い出を織り交ぜながら「ララ物資」の展示解説をさせていただいています。日系の人たちの祖国への思いと無私の心、結束力、実行力が成し遂げた大きな力を、ぜひともたくさんの人に知っていただけたらと思います。



2010年12月

  こんにゃく版 
ボランティア  松田 潤治郎

書生新聞のコーナーの前で

 明治時代初期に、アメリカへ留学した書生たちが現地で発刊した新聞として、THE NINETEENTH CENTURY「第十九世紀」(1889年、明治22年6月14日 発刊)の 複製が展示されています。この新聞は、一見、ガリ版(謄写版)に見えますが、ガリ版ではありません。なぜなら、トーマス・エジソンが謄写版を発明したのが、1893年頃で、日本では、その翌年1894年、堀井新治郎によって、最初の謄写版が完成されているからです。謄写版が発明される4年前も前のことになります。
では、どのような印刷だったのか。この手がかりを得る為、わたしは、昨年2月、同資料(複製)の入手先である入間市博物館へ行ってきました。
同博物館には、1886年(明治19年)に渡米留学した粕谷義三のコーナーがあり、そこに、この「第十九世紀」紙の複写が、「大日本」第1号(複製)と一緒に展示されていました。
同氏がミシガン大学に留学し、1891年(明治24年)に、帰国した際に持ち帰ったものです。現地で日本人留学生たちによって手書きで発刊され、まわし読みされていたのが「大日本」第1号(1889年、明治22年発刊)でした。
「第十九世紀」紙は、サンフランシスコで、民権派の日本人青年によって組織された 在米国日本人愛国有志同盟会(後に、日本人愛国同盟に改称)の機関紙だったのです。 週1回発刊され、粕谷義三氏もメンバーとして論説などを執筆されていたそうです。
さて、その印刷ですが、同博物館の学芸員工藤さんの説明では、以前、印刷関係者に見てもらったこともあり、蒟蒻(こんにゃく)版という平版印刷ではないかとのことでした。
あらためて、「第十九世紀」紙(複製)を見ると、ガリ版ほどのしっかりした字体とは少し違い、ぺンや筆先を使って書かれたような、やわらかいタッチを感じます。 手書きしたものを、平面の蒟蒻(ゼラチン状のもの)に写し、それを転写して複製が作られたことで納得できます。既に欧米では1870年頃から、ゼラチンが敷かれた平面に、染料インキで文字が書かれた紙をあて、ゼラチン面にインキの文字を写し、ここに用紙を乗せて転写し複製を作っていくという、複写方式があったのです。
蒟蒻版は、夏目漱石の「坊ちゃん」に、登場してきます。着任早々の学校で、初めての職員会議に臨み、うらなり先生を待つ間、「校長が、ふくさ包みをほどいて、蒟蒻版のような物を読んでいる」とか、「狸は先ず書記の河村君に蒟蒻版を配布させる」というところがでてきます。新潮文庫の坊っちゃんでは、この蒟蒻版に(注解)が付けられていて、「謄写版の一種。ゼラチンまたは寒天を固まらせて作った版を用いて印刷する。もと蒟蒻を用いたので、こう呼ばれる」とあります。
なお、海外移住資料館の海外日系新聞コーナーでは、各邦字紙名の中に、「大日本」新聞第1号紙面の一部が小さな写真で紹介されています。また、「大日本」紙や「第十九世紀」紙の本物は、入間市の橋本久雄氏が所蔵されておられるようです。



2010年7月

  ぶらじる丸 
ボランティア  松田 潤治郎

「世界移住マップ」のコーナーで
ぶらじる丸(1973年,横浜港)

 ぶらじる丸は、解体されていなかった。 このことについて、わたしは、まず訂正して、お詫びしなければなりません。 海外資料館にはぶらじる丸の模型が展示されています。
 これまで、ボランティア・ガイドの展示説明で、わたしは、「ぶらじる丸が三重県の鳥羽で、海洋パビリオンとして係留されていたあと、スクラップされてしまいました」と、話してきました。
  それが、2009年1月27日付、朝日新聞夕刊で、「ぶらじる丸 生きていた」の見出しで報道されたのです。1996年に船主の商船三井が解体を決めてから後、新聞記事によれば中国へ曳航されていたのです。1997年から、中国南部の港町、湛(たん)江(こう)(現地読み:チャンチャン)で、「湛江号」となって、観光施設になっているようです。
  おもわず、よかったと思いました。そしてすぐ、スクラップになったと、話してきたのは間違いだったと反省しました。
  ぶらじる丸(総トン数1万212トン、全長156m、全幅19.6m)は、1954年に戦後初めての移住客船として建造されました。1972年11月25日に横浜港から245名の移住者を乗せた航海を最後に、日本からの南米向け移住者の輸送を終えました。その間18年余に、1万6千余名の移住者を運んでいます。
  その後、日中友好の青年の船としても活動しています。そして、1974年から三重県鳥羽湾内で、海洋パビリオンとなって係留されていました。
  ぶらじる丸には、思い入れがあります。
  わたしは、日本学生海外移住連盟、第三次・第四次南米実習調査団として、ブラジルでの実習を終え、1964年4月、ブラジルのサントス港から横浜に帰国しました。その船が、ぶらじる丸でした。この船にとって、この航海が三等船室の二段ベッド(通称カイコ棚)を備えた、最後の航海だったのです。移住者のほとんどは、このカイコ棚といわれるベッドで40日前後の船旅をしたのです。わたしは最後の三等船客の一人として、カイコ棚を体験しました。仰向けになって寝ると頭の上のところに、本を置いたり手紙を書いたりできる小さなテーブルがあり、大人一人が横になれるスペースでした。隣のベッドとはカーテンで仕切られていました。夜はデッキに出て、一緒に帰国する団員とともに南十字星を探しながら、将来の夢を語り合ったことを思い出します。その年の秋、東京オリンピックが開催されました。
  このあと三等船客(室)はなくなり、エコノミークラスとなり、4人部屋や6人部屋のキャビンに変わりました。それからさらに10年近く、ぶらじる丸は航海を続けたのです。
  なお、同名の初代ぶらじる丸(1937年建造)の模型が、ブラジル、サンパウロ市 にある海外移住資料館で展示されています。



2008年3月

 
  神戸移住センターの名称 
ボランティア  松田 潤治郎

神戸移住センターの写真の前で
神戸移住センターの写真の前で

 「移住センターって、移民収容所だったんでしょう」と、「戦後の南米移住」のコーナーを説明していた際、グループで来館されたご婦人がたの一人に問いかけられました。
  その方は、2004年12月5日から5夜連続で、NHKで放送されたドラマ「ハルとナツ −届かなかった手紙」をご覧になって、「移民収容所」という言葉を知ったと言われました。ブラジル移住者をテーマにしたドラマ「ハルとナツ」では、ハルとナツ一家が移住前に、身体検査を受け、妹のナツはトラホームという眼病にかかっていると診断され、一人だけ移住できなくなるというシーンがあります。これがこの移民収容所でのことでした。そののちに神戸港で涙の別れのシーンとなるのですが、「私も感動しました」と話が盛り上がり、移民収容所についても少し説明をさせていただきました。
  ドラマの舞台となっている1934(昭和9)年には、正式には神戸移住教養所という名称でした。橋田壽賀子さんの原作本にも、神戸移住教養所と書いた上で「通称(収容所)」と書かれています。もともとこの建物は1928(昭和3)年に内務省により開設され、国立移民収容所と呼ばれていました。翌年にできた拓務省に移され、その後、「収容所」という名称が捕虜(ほりょ)収容所をイメージさせたようで、1932(昭和7)年に神戸移住教養所と改称されています。ちなみに、石川達三さんがご自身の経験をもとに書かれた『蒼氓(そうぼう)』(第一回芥川賞受賞作)には、1930(昭和5)年の時代設定で、国立移民収容所として登場しています。 そして、戦後は、海外移住が再開されると1952(昭和27)年に外務省の神戸移住斡旋所となり、西日本地域から海外へ移住する人たちの宿泊施設として再スタートしました。1964(昭和39)年には海外移住事業団(現在のJICAの前身)に移管され、名称が神戸移住センターになった後、1971(昭和46)年5月に業務が横浜に統合されるまで、所管や名称を変えながら移住者を送り出してきました。
  なお、1965(昭和40)年から、ブラジル極東選考事務所が、ブラジル移住希望者を、職業(技術)と健康診断により、面接で適格者を選ぶようになりました。年に3〜4回、神戸移住センターでもこの選考が行われ、私は当時その担当者として選考の立会いをしていました。選考にのぞんだ移住者が、選考官(ブラジル人医師)から「ボア・ビアージェン(良い旅を)」といわれ、適格者として認められ、移住が実現する瞬間を一緒に喜んだのを思い出します。しかし、残念ながら全員が適格者だったわけではなく、この選考で移住できなくなった人たちにも、その理由を説明し、今後の対策を一緒に話し合って、帰っていただいた苦い経験もありました。
  多くの移住者達の思い出の詰まったこのセンターは、開設から80年を迎え、現在、保存・改修が決定し、今後の新たな活用が期待されています。



2008年3月

  「新しい移住」の時代 
ボランティア  新保 猛

「世界移住マップ」のコーナーで
「世界移住マップ」のコーナーで

 資料館を入って最初のコーナー「海外移住の歴史」のコーナーでは、世界移住マップという映像展示装置が設置されています。
  ここでは、時代に沿って7つのステージで構成されています。約700万年前に東アフリカで誕生したとされる人類が、世界各地へ移住していき、その各地で新しい社会、都市、そしてさらには国家を形成していき、またそれぞれの地で文化をつくりあげていく流れが表示されています。この「移動」からみた人類の歴史は、私にとっては非常に新しい視点で、自分がこれまで考えていた歴史の枠組みを超え、よりスケールの大きな流れを感じさせてくれました。社会の発展、そして技術の進歩につれて、人々の移動はそのかたちを変えていきますが、中には希望を持って新世界に移動した人々もいた一方で、奴隷貿易といったかたちでの人類の移動もありました。国、そして地域間の力関係を反映し、その影響を受けて、人類が拡散していった様子が感じとれます。
  中でも私にとって一番印象的なのは、最後の「新しい移住」という区分です。ここでは、人類の次のステップともいえるグローバリゼーションへの流れが示され、人々がそれぞれの国の枠を超えて、世界規模で移動する「新しい移住」がはじまっていることを伝えています。なお、この最後には「私達の子孫が地球市民となる日がやがて訪れる」というメッセージが表示されますが、これは、今まで私が館内ガイドでさまざまな子どもに接する中で、彼らの限りない将来の可能性を感じてきた気持ちと通じるものがあり、特に印象深い一節です。またこの言葉は、人類の希求する目標をも描いているように感じています。
  この「世界移住マップ」は、来館者自身で映像を操作しながら閲覧する装置となっています。現れる映像とともにそれぞれの解説文にもぜひ目を通し、この壮大な人類の歴史の一端に触れていただければと思います。



2008年2月

  来館者とのふれあいから 
ボランティア  長P 威

「コーヒーより人を作れ」の言葉を指して
「コーヒーより人を作れ」の言葉を指して

 私が資料館のボランティア活動に参加して、はや5年近くになります。来館者の方々をご案内する中で、自分への刺激や勉強にもなり、時には感動することも多くありました。その中の一つをご紹介したいと思います。
 ある県立高校の生徒達が、グループに分かれて見学に来たときのことです。私も、いろいろな展示コーナーの前で何組かに適宜説明をしました。その中のひとつ、5人組の女生徒のグループを案内していたときのことです。
 アリアンサ移住地*のコーナーに展示されたアリアンサ移住地建設記念碑の前で、定住移民(移殖民)の始まりについて話を始めたところ、生徒から、移住者が現地の言葉を習得する方法についての質問がありました。「私達が勉強している英語もむずかしいのに、まったく違うブラジル語を習得するのは、並大抵なことではないのでは?」と、現地の言葉の習得に不安感をもっていました。
 そこで私は以前カナダのトロントに勤務していた頃に、カナダの移住者子弟から聞いた話を思い出して話をしました。カナダは英語・フランス語のバイリンガルの国で、英語圏の小学校では英語はもちろん、フランス語も必修です。日本人移住者子弟の場合は、それに加えて土曜日に日本語学校で日本語を学び、合計三ヶ国語を勉強しています。日本人移住者だけでなく、どこの国の移住者でも母国語を大切にする移住者ならば母国語の勉強をしているのです。この話を聞いた生徒達はとてもショックを受けた様子でした。そこで、「移住者は、移住したからといって自然に移住先の言葉ができるようになるのではなく、そこには学習が不可欠なのです。『英語は難しい』という人もいるけれど、もっと積極的に取り組んでみてほしい」と励ましました。 また同時に、国語(日本語)をしっかり身に着けておくことの重要さについても触れました。母国語の土台がしっかりしていなければ、外国語の上達は望めません。まずは日本語をしっかり身につけることも伝えました。
 なお、同コーナーの壁面には永田稠(しげし)**氏の「コーヒーより人を作れ」という言葉が展示されています。「この言葉が何を意味しているかわかりますか」と問いかけてみましたが、即答はありませんでした。そこで私は「この言葉をノートに書いて、英訳をしてみてほしい。そして半年後、一年後、一年半後と、過去の訳文を見ないで再度英訳し、過去のものと見比べてみれば、その訳文の違いには国語力・知識力の進歩の差が出るだろう。私もいつかその記録を見てみたい」とも話しました。
 すると解説が終わった後、生徒たちが突然「一緒に来ている英語の先生にあって話をしてほしい」というのです。時間の関係で難しいことを告げると「それではぜひ一筆書いてほしい」といわれたので、私は「コーヒーよりも人を作れ」という言葉を励ましの言葉に添えて書き記しました。 移住の話からは少し脱線もしましたが、生徒たちが何かを学び取りたいと純粋に模索している気持ちが、いじらしくもいとおしくも感じられる出会いでした。私の微々たる経験が、若い人たちへのアドバイスへと役に立てたなら幸いです。

* サンパウロ州西部の移住地。1925年から移住が開始された。
** アリアンサ移住地創設の主導的役割を担った人物。



2008年1月

  塚原但馬守の選択 
ボランティア  樋泉 武

「日本人海外移住の歴史 T期 海外渡航のはじまり」のコーナーで
「日本人海外移住の歴史 T期 海外渡航のはじまり」のコーナーで

 「日本人海外移住の歴史 T期 海外渡航のはじまり」のコーナーに、羽織袴に両刀を差したチョンマゲの侍達と制服制帽姿の外国軍人達の集合写真が展示されています。キャプションには、「アメリカ亡命第一号・旧幕府外国総奉行 塚原但馬守昌義」とあります。前列左端の人物です。
  この写真は、1858年に調印した日米修好通商条約の批准書交換のために、江戸幕府が米国に派遣した使節団が、ワシントンの米海軍造船所を訪問した時の記念写真です。前列の侍達は、いわば江戸幕府の高官達といってよいでしょう。
しかし、明治維新という政変で彼らの人生は暗転しました。この使節団の正使を務めた新見正興は、明治になってからは活躍の場がなく、世間からすっかり忘れられた存在でした。大正7(1918)年、駐日アメリカ大使モーリスが帰国に際して、日米外交の先駆けとなった新見の墓に詣でたいと外務当局に手配を依頼したけれども、皆目分からず、東京在住の新見姓の者をしらみつぶしに尋ね歩いたという笑えない話が伝わっています。
  また、目付として同使節団に参加した小栗忠順は、その後も江戸幕府の一員として洋式軍隊を編成し、横須賀製鉄所を建設する等、行政官として手腕を発揮しましたが、あらぬ嫌疑をかけられて薩長軍に捕らえられ、斬首されてしまいました。
  それでは、塚原但馬守昌義の場合はどうでしょう? 1868年(慶応4年)の戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いにおいて、彼は幕府軍の副将として倒幕派と戦いましたが、兵力数では幕府側が圧倒的に優勢だったにもかかわらず、徳川慶喜が大阪の戦場に将兵を置き去りにしたまま大阪湾から江戸に逃亡してしまい、戦意喪失した幕府軍の敗北という結果になりました。以後の上野戦争、会津戦争でも幕府軍は全敗し、薩摩藩・長州藩を中心とする新政府が樹立されることとなります。敗軍の副将・塚原但馬守の将来は暗いものです。
  ところで、徳川慶喜は大阪湾でまず米艦イロコイ号に保護され、その後、幕府の軍艦開陽丸に乗り換えて江戸に帰ったとも伝えられています。塚原昌義について詳しいことは分かりませんが、米国軍艦と接触を持ったとしても不思議ではありません。その後、薩長を主体とする新政府のもとでの自らの将来に見切りをつけて、かつて日本使節団の一員として歓迎された米国に夢を求めたのかもしれません。掲示されている年表には、「サンフランシスコ・クロニクル」紙の1869年6月17日版に、亡命中の彼の消息を伝える記事が掲載されていると記されています。残念ながらその内容は分かりませんが、彼にとって移住先での生活が明るいものであったならば、嬉しい限りです。

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2007年12月

  日系研修員を案内して 
ボランティア  伊藤 宏

ニッケイ・ライフ・ヒストリーの「老いる」の前で
ニッケイ・ライフ・ヒストリーの「老いる」の前で。自分の祖父の写真を見つけた研修員もいました。

 海外移住資料館があるJICA横浜では、中南米から来た多くの日系研修員が学んでいます。彼らは、研修の一環としてこの資料館を見学するため、私もそういった研修員を案内することがあります。
  日系といっても、その反応は世代によって様々です。二世・三世になると、親や祖父母から移住した時の話や開拓生活の話はあまり聞いていないこともあります。しかし、この資料館で実際に開拓に使われた農具や当時の写真を見ることで、「本当に自分の両親・祖父母が大変苦労していたことが実感できた」「改めて自分自身の家族の歴史を考え直した」という声があがります。
  一方、幼少時に移住した一世の方からは、展示された移住前の集合写真を見て「ここに写っているのは私です」と教えられたこともあります。今と違って海外へ行く人も少なく、その行程も船で40日以上もかかった時代です。移住するということは「生き別れ」になることも多くありました。出発から到着にかかった日数が長いだけ、今よりもっと、日本から遠くに離れる気持ちになったことでしょう。しかし、そうして離れた日本に昔の自分の写真に残っていること、そしてそれが資料館という場に展示されているということにとても感動されることも多くあります。
  私は、案内するときには、なぜ彼らの父母・祖父母が移住をしたのかということを考えてもらえるようにと思っています。海外移住には経済的な理由が語られがちですが、チャレンジ精神や冒険心を持って、海外での発展を夢見て移住した人も多くいます。二世や三世にも、その精神を感じることで、家族のありがたさや尊敬の気持ちを大切にしてもらいたいと思うのと同時に、日本での研修という彼らにとっての新しいチャレンジを、同じ精神で乗り越え、よりよい成果を収めてほしいと思っています。



2007年11月

  移住先の風景 ―移住地間の国際交流―
ボランティア  八重尾 直忠

グアタパラの交流団
セタパルの前に集まったグアタパラの交流団。(1993年)

 広大な新大陸の風景を映し出す「移住先の風景」の三面スクリーン。この向かいには、パラグアイのイグアス移住地の模型が展示されています。
 パラグアイ国内には、このイグアス移住地のほかにも移住地があり、移住地対抗のスポーツ大会など、移住地間の交流は日ごろからさかんに行われています。しかし、近隣国の移住地との交流はそう簡単ではありません。
  1993年、私がこのイグアス移住地のセタパル(JICAパラグアイ農業総合試験場)で農業専門家として勤務していたときのことです。マカダミアナッツの種子の入手のためにブラジルへ出張した帰路に、以前勤務していたグアタパラ移住地へ立ち寄って、グアタパラ文化協会にイグアス移住地の話をする機会がありました。
  グアタパラ移住地は、サンパウロから280km圏内に位置し、近郊農業的中小規模農業を営む移住地で、2005年に小泉元首相がブラジルを訪問した際に、視察のヘリコプターから降り立ち感激して涙したところでもあります。
  イグアス移住地は、不耕起栽培法*という新しい農業技術を導入して、これを定着させ、飛躍的に農業経営を安定させたことで世界の農業界で注目を集めている大規模移住地です。このような話をしたところ、グアタパラ移住地の人々から「ぜひ自分達の目で見てみたい」という声があがりました。私は早速イグアスに戻ってイグアス日本人会にその旨を伝え、仲介役として共に準備に取り組みました。
  そして、1993年11月、グアタパラからバスを借り上げ丸一日かけて、イグアス移住地へ交流団がやってくることになりました。イグアスでは移住地あげて歓迎し、さまざまなプログラムが組まれました。営農検討会や情報交換では真剣に議論が交わされ、それぞれの移住地の課題について話しあい、また夜の歓迎会ではパラグアイ名物のアサード(焼肉)パーティが催され、カラオケの対抗戦や隠し芸大会で大いに盛り上がりました。その夜、交流団は移住者の家庭にそれぞれホームステイし、親交を深めることができました。 翌日は、農協や日本人会の施設、そしてセタパルの試験圃場の視察し、大規模なイグアス移住地と小規模のグアタパラ移住地の違いを見て「うらやましい」という声もあがりましたが、一方で自分達の移住地にあった営農を見直すきっかけにもなったようです。また、イグアスでも、日系団体の運営や後継者の育成などのグアタパラの取組みに学ぶものが多かったようです。
  この交流は定期的に相互の移住地を訪問するというかたちで現在も行われています。国境を越えた移住地同士の交流は、視野を広めるだけでなく、移住者同士の連携を深めていくことができたようです。イグアスではその後、他の移住地とも交流を開始しました。今後もぜひこのような活動が活発に行われていくことを期待しています。

*収穫が終わった畑を耕さずにそのまま種をまく方法。土壌の保全にもつながる栽培方法として注目されています。
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2007年10月

 ブラジル移住とコーヒー物語
ボランティア  榮田 剛

コーヒー栽培の展示コーナー
コーヒー栽培の展示の前で。向かって右がグリーンコーヒー、指し示しているのがパーチメントコーヒー。

 日本からのブラジルへの計画的な移民は、1908(明治41)年の笠戸丸による契約移住者781人の渡航が最初で、4月28日に神戸港を出港して西回りのシンガポール、インド洋経由で、同年6月18日にサントスに入港した。これら移住者のうち772人が6ヵ所のコーヒー園にコロノ契約を結んで就労した。コロノとはコーヒー園契約労働者という意味である。以後、コロノ移住が続く一方、最初からコーヒーを基幹作物(中心となる作物)とした自営農を目指す植民地(日本人による集団地)創設も案外早くから進められているが、いずれにしてもコーヒー園就労がブラジル移住の嚆矢であったと言えよう。
 資料館の「どんな仕事についたのか」というコーナーでは、移住者が携わった仕事のひとつとして、コーヒー栽培が紹介されている。広大なコーヒー園と労働者住宅群を背景に、グリーンコーヒー(収穫されたばかりの生豆)やパーチメントコーヒー(未精製)が展示されている。
  ブラジル日本人移住史の中でコーヒー栽培は非常に重要な位置を占め、サンパウロ州、続いてパラナ州の日系農民の開拓地での基幹作物にはほとんどコーヒーがあり、1970年代の日系農民はブラジル農民全体の0.7%でありながら、コーヒーの生産の7%余りを占めていたというデータもある。当時の日系農民の経営するコーヒー園の規模が何千ha、何十万本という例も枚挙に暇がない。なお世界のコーヒー生産のトップは現在もブラジルが占めているが、主産地はミナス・ジェライス州、エスピリト・サント州、ロンドニア州などに移動している。
 なお植物として見たコーヒーはアカネ科、コーヒーノキ属に属し、その種は膨大であるが、飲用コーヒー原料として重要なのはアラビカ種とロブスタ種で、前者が70〜80%を占めている。アラビカコーヒーの原産地は、エチオピアのアビシニア高原とスーダンとされ、これら高地森林地帯には現在でも広大なコーヒーの原生林が残っている。

最後に、コーヒーを扱ったブラジル日系コロニア文学で著名なる短歌と俳句を紹介します。

珈琲のうねりの丘に沈む日の多いなりけり燃ゆる許りに (岩波菊治)
夕ざれば樹かげに泣いて珈琲もぎ (上塚周平・瓢骨)

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2007年9月

 学校給食を支えたララ物資と日系人
ボランティア  鏑木 功

ララの記念碑
ララの記念碑。当資料館から徒歩1分程度。

ララの品つまれたるを見て
とつ国のあつき心に涙こほしつ

 これは香淳皇后が昭和24年に詠まれた御歌である。資料館から徒歩1分の横浜港にはこの御歌が刻まれた記念碑が建てられている。「ララ」とは、当資料館の「海外移住の歴史」コーナーでも紹介されている「ララ物資」と呼ばれる援助物資のことである。
  ララ物資は、戦後混乱期の日本に1946(S21)年11月から1952(S27)年までの6年間にわたって送られた援助物資で、食料や衣料、医薬・医療品、原棉などの物資の総額は、当時の金額で400億円にものぼり、今日の価格に置き換えれば一兆円近い。ララ物資は、日本国内の学校給食を中心として社会事業施設等に重点的に配分された。大人も子どもも栄養失調が懸念された時代、学校給食を支えたこのララ物資は、厚労省の記録にも、「正に干天慈雨ともいうべき救いの神的存在」(当時の担当局長の言葉)と残されている。
 しかし、このララ物資実現への道づけと、物資の20%にも及ぶ調達資金の寄付に奔走したのが、当時北・南米に移り住んでいた日本人・日系人であったことはほとんど知られていない。
 第二次大戦中、北・南米に住む日本人とその子孫達は、敵性外国人として強制収容されたり、資産の没収・凍結を受けるなどの境遇に置かれていた。終戦後は、一から生活基盤を再建するという厳しい状況にあったにもかかわらず、母国日本が敗戦によって困窮していることを知り、ニューヨークに日本人有志20名が集り、「日本救援準備委員会」を組織したのがララ物資実現の第一歩であり、実に終戦の一ヵ月後の9月14日のことであった。この気運はアメリカのみならずカナダ、ブラジル、メキシコ、アルゼンチンの日系社会にも伝わり、各地での救援運動に発展した。ところが、当時はまだ敵性外国人による活動が認められずに行き詰ってしまった。そこで、日系人リーダーが米政府への働きかけた結果、アジア救済公認団体(英語名の頭文字でLARA[ララ]という)に寄付することによって日本への救援物資の送り出しの道が開かれた。そして11月にはララ物資の第一便が横浜港に接岸したのである。
  飽食の時代となった今、残念ながらこの碑に足を止める人はわずかとなってしまったようだが、最近報道されている給食費未納問題を思うとき、ララ物資と学校給食の原点を、改めて多くの人にも知ってもらいたいと思う。

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2007年8月

 横浜中華街散策 ―展示の地図から―
ボランティア  松田 潤治郎

「横浜港周辺の移民宿」地図の前で
「横浜港周辺の移民宿」地図の前で。指し示してるところが現在の中華街のあたり。

  「移住の道のり ―どうやって行ったのか」というコーナーに「横浜港周辺の移民宿」という地図が展示されています。これは明治28(1895)年の新撰横浜港全図に、明治34(1901)年に横浜港周辺にあった移民宿*を表示したものです。
 右からずっと見ていくと、現在の桜木町からみなとみらい地区、そして馬車道を下ってきたところに現在この資料館が位置する場所などを見つけ出すことができます。地図の中央には「大イギリス大波止場」とあり、ここが現在の大桟橋にあたるのでしょう。 さらに左にある大岡川を少し遡ったところに、道路の向きが周囲と違う一画があります。港周辺の道が港に面して碁盤目状に区画されている中で、この区域の道は、その周辺の道路に約45度の角度でぶつかっています。地図の左下の方位図と比べると、この区域の道路は、東西南北に開かれていることがわかります。
  なぜここだけが東西南北に開かれているのでしょう。この場所は、現在の中華街があるところです。1859年の横浜開港によって横浜にやってきた欧米人は、漢字で筆談できる中国人をともなってやってきたといわれています。そして中国との交易がさかんになるにつれてこの場所に多くの華僑が移り住み、中華街として栄えていったようです。 古代中国では、皇帝が都を開く際、悪い運気の侵入を防ぐために東西南北の入口に守護神を置いたと伝えられていますが、現在の中華街にも東西南北に牌楼(パイロウ)と呼ばれる門があり、それぞれの守護神が見守っています。当初、東西南北の道路はこの風水思想に関連しているのかと思いましたが、調べていくうちに、中華街形成以前から、すでに東西南北にそったあぜ道で区画されていたことがわかりました。横浜開港のころには、ここは横浜新田といわれていましたが、横浜市開港資料館の「横浜村竝近傍図(嘉永4年[1851年])に、すでに東西南北に区画された横浜新田を見ることができます。
  この近辺は、横浜新田同様に古くから埋め立てが行われた吉田新田や太田屋新田がありますが、横浜新田だけが東西南北にそっているようです。なぜここだけが東西南北に沿ってつくられたのか、それ以前から東西南北のあぜ道があったのか、まだまだなぞは解けません。そしてまた、その後に、風水思想を持つ中国人たちの街となったのも不思議な偶然です。 たくさんの移住者が旅立ったここ横浜は、さまざまな人々が移り住んだ街でもあります。資料館の見学にあわせて、この附近を散策されるのも楽しいのではと思います。

移住者が出航前に宿泊した施設

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2007年7月

 アマゾンのコショウと日本人移住者と農業
ボランティア  諸橋 茂喜

「コショウ栽培」のコーナー
「コショウ栽培」のコーナー。 右にあるのがコショウの原寸大レプリカ。 手前には黒コショウと白コショウがある。

 資料館の「移住者のなりわい ―どんな仕事についたのか―」の「コショウ栽培」のコーナーには、コショウの原寸大レプリカが展示されています。コショウは、インドのマラバル海岸辺りが原産の多年生つる植物で、節から根を出して樹木にまとわりついて成長し、その長さは7〜8mになりますが、栽培するコショウは2〜2.5m程度の支柱にまとわりつかせます。果実は、節部から穂状について7mmほどで丸く、成熟直前に収穫して天日で乾かすと黒コショウになり、果皮をとったものが白コショウになります。
  ブラジルのアマゾン地域でコショウを最初に栽培したのは、1929年に南米拓殖(株)が創設したトメアスー(旧アカラ)移住地の日本人移住者たちです。1933年にシンガポールから導入した苗のうちの2本から増やされたコショウは、1956年にブラジルの国内自給を達成しただけでなく、輸出も行なわれるようになり、その栽培はアマゾン全体へと広がりました。日本人移住者を中心とするコショウ栽培の最盛期には、ブラジルの輸出量が国際市場の30%を超えるまでに成長し、アマゾンを一躍世界のコショウ生産地に押し上げ、地域の経済と雇用の拡大に寄与しました。
  ところが、1960年代後半からコショウが枯れる病気が発生し、10年後には移住地全体に広がりました。日本人移住者の多くは、病気のない新しい土地を求めてコショウを移動栽培するようになりましたが、一部のトメアスーに残った人たちは、コショウ畑の中にパッションフルーツやカカオ等を植え、コショウが枯れても農業生産が続くように工夫し、後には、一緒にゴムや樹木を植えていきました。こうして作られた畑は、コショウ、カカオ、果樹と樹木が雑じりあい、生態的に多様なアグロフォレストリーが実践され、今、注目を集めています。
  初期の日本人移住者によってコショウのプランテーション農業が生まれたアマゾンでは、今、その子孫が、熱帯の自然と調和をめざして、地球に優しい熱帯農業に取り組んでいます 。

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2007年6月

 移住者の声に耳を傾けて
ボランティア  上村 昌司

「移住の背景 ― なぜ海外へ行ったのか」コーナーの前で
「移住の背景 ― なぜ海外へ行ったのか」コーナーの前で

 当資料館では多くのコーナーにモニターを設置し、移住者の証言を映像で展示しています。これらの証言は、移住するに至った決心や移住地での生活などを、移住者自らの言葉で私たちに直接語りかけてくれるだけでなく、移住者をとりまく当時の社会情勢を理解する面でも、非常に興味深いものであります。
  たとえば、「移住の背景 ― なぜ海外へ行ったのか」のコーナーでは、戦前、アルゼンチンへ移住した方が「20歳になったとき、当時の日本の軍事政策のために将来を考えさせられ、戦争に行くか南米に行くかとのと決断に迫られ、南米に来ることを選びました」と、その動機を語っていて、徴兵制のしかれていた戦前の社会情勢が感じられます。
  また、証言映像コーナー(戦中)では、アルゼンチンで日本の終戦を聞き、帰国をあきらめてアルゼンチンに永住し、在住邦人の発展に尽力することを決意した移住者の証言も紹介されています。ちなみに、アルゼンチンの在留同胞は、戦後いち早く米軍の占領下にあった日本からの移住者の呼び寄せを開始しています。戦後、朝鮮や台湾、そして中国などからの引揚者や復員軍人などで人口過剰となった日本にとって、海外同胞とその日系社会からの支援が、戦後移住の大きな原動力となったのです。
  また、戦前と戦後で移住者を取り巻く状況は変化していますが、「日本の限られた土地では求めても叶えられなかった夢を広大な新天地に託す」という移住者の気持ちには変わりはありません。海外移住とは、新たな土地で自らの夢を追い求めることだったのです。映像の中では、証言だけでなく移住者がつくった歌もいくつか紹介されていますが、その歌からも大きな夢を追い求めた移住者の気持ちを感じていただくことができると思います。 一つ一つの映像に耳を傾けられる来館者の方は残念ながらそう多くはありませんが、当時の状況や心情に思いを馳せながら、じっくり耳を傾けてみていただければと思います。 (談)

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2007年5月

 あるニッケイ人の想い
ボランティア  山縣 正安

メッセージボード
メッセージボード

 来館される方の中には、身内の方やお知り合いが海外へ移住されているという方が結構おられます。そのような方々には、より展示を身近に感じていただくため、ブラジルへ移住した私の伯父の話を交えることもあります。
  私の伯父には7人の子ども(私にとってはいとこにあたります)がいて、伯父は彼らに日本を知って欲しいと切実に望んでいました。初めは母親の母国イタリアに興味を持っていた彼らも、日本の親族(私とその家族)との関係を通して次第に日本への関心が強くなり、2人のいとこの来日が実現しました。出発前、2人は「言葉や習慣の違う自分達が、はたして日本の親戚に快く受け入れてもらえるだろうか」と不安で一杯だったそうです。
  伯父は既に亡くなりましたが、いとこ達とその家族との付き合いは、今日まで続いています。来日経験のあるいとこは、最近新築した家に竹を植えて日本風の庭をつくったり、部屋に盆提灯などを飾ったりして、日本の文化を生活に取り入れています。また、あるいとこは、日本人移住者をテーマとした論文を執筆しています。訪日経験のないいとこ達も、日本で自分のルーツを探ってみたいと思っていることは確かです。
  一方で、私が出会った二世、三世等の中には、日本に全く興味がなく、「私はブラジルで生まれ育ったブラジル人」という人もいます。それはそれで一つの考えだと思います。
  常設展示の最後のほうにあるメッセージボードのコーナーには、各国のニッケイ人がインタビューに答えている映像と、アンケートが展示されています。ここで興味深いのは、「あなたは何(なに)人ですか?」との問いに対し、「私はブラジル(またはそれぞれの国)人です」という言葉に続き、非常に多くの人から「そして私は日本人の子孫です」 という答えが返ってくることです 。私はいとこ達と「ニッケイ人」ということについて具体的に話したことはありませんが、彼らが「私達には日本人の血が流れている」と思っていることが伝わ+ってきます。メッセージボードをご覧になる際には、ぜひこのようなニッケイ人の想いを思い出していただけたらと思います。(談)

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2007年4月

 日系社会への旅立ちを前に
ボランティア  安田 幸雄

「ごちそうテーブル」の前で
「ごちそうテーブル」の前で

 先日、資料館では、来年度にJICA日系社会ボランティアとして派遣される方がたの研修がありました*。全35名の候補生をグループに分けて見学することになり、私は主にブラジルに派遣される候補生の皆さんをご案内しました。
  派遣を前にした候補生の方々は移住者の道のりや現地での生活について興味津々の様子。さまざまな質問が出て、楽しい見学になりました。
  「最後の移民船にっぽん丸」のコーナーで、移住先への船旅の説明をすると、「船で現地までだいたい何日かかるんですか?」という質問が出たので、私が1964年に、ぶらじる丸に同乗していったときのことを例にあげて「東廻り航路では45日ぐらいかかります」と説明したところ、「そんなに!」という声もあがりました。また、女性が多かったこともあって、移住者の方々が持っていったトランクに入った化粧品なども興味深かったようです。このほかにも、「ごちそうテーブル」の見学ではブラジル料理のフェジョアーダの模型を見ながら、「これはおいしいんですか?」という質問が出たりと、現地での生活に想像を膨らませているようでした。
  見学後には、「現地の文化と日本の文化が融合した独特の文化がつくられていると感じた」といった感想や「日系社会にさらに興味がわいてきた」という声も聞くことが出来ました。
  日系社会と一言に言っても、場所により非常に様々です。それぞれの場所で暮らす人たちの価値観を尊重すると同時に、自分自身も趣味や特技など相手に伝えることのできる何かを持って行ってもらいたいと思います。それらを通じて日系社会にどんどん飛び込んでいけば、多くのことを学ぶ機会を持つことができると思います。実り多い時間を過ごされることをお祈りしています。(談)

*日系日本語学校教師・日本語教育の職種の方を対象とした技術補完研修です。

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2007年3月

 移住後の人生の原点を  ―出発前の移住者の記念写真―
ボランティア 堀口 進一

戦後の南米移住のコーナーで
戦後の南米移住のコーナーで

 「戦後の南米移住」のコーナーに展示されている写真「神戸移住斡旋所にて講習を終えた出発前の移住者たち」。私には格別の思いがある写真である。
 この写真は、1960(昭和35)年、当時は外務省の所管であった神戸移住あっせん所の前庭で南米行きの船に乗る当日を迎えた移住者達が、晴れ着を着て集合した記念写真である。この写真には、働き盛りの男女とその子ども達の数が非常に多いのに驚かされる。あっせん所長や係官、守衛さんたちの姿も見える。
 この年は戦後の南米移住がピークに達した年で、8,300人を超える移住者が政府の渡航費貸付を受け南米へと移住した。私も当時、このあっせん所の中にあった日本海外協会連合会の神戸支部の新人職員として、移住者のビザ取得手続や渡航費貸付契約の事務等に悪戦苦闘していた。 当時活躍していた移住者輸送船は計10隻で、神戸からは毎月2日に日本の会社の船が、17日にはオランダの会社の船がそれぞれ出港していた。
 乗船の日、移住者は、記念撮影ののち、日本での最後の日々を過ごしたあっせん所を後にして、迎えの市バスで桟橋へ向かう。移住者の数が多いときはそのバスは10台以上のパレードになった。白バイに先導され、港へ向かうバスに沿道の市民が手を振って激励する様子は、神戸の風物詩ともなっていた。
 いよいよ船が桟橋を離れるときの情景は、今も忘れられない。移住者と、それを見送る肉親、友人の間には、これが今生の別れとなるかもしれないとの想いが強かった。数百人、数千人の人々が、それぞれの思いを胸に互いに手を振り合い、涙を流して名を呼び合う姿は、横にいた私にとっても本当に切ないものであった。  長い船旅を経て新天地へと向かった移住者たち。移住者一人ひとりにとって、その後の人生の原点ともなっているであろうこの記念写真は、彼らを見送った私にとっても感慨深いものである。

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2007年2月

 優しいタッチで農民を描いた半田知雄
ボランティア 榮田 剛

半田氏の絵画の前で
半田氏の絵画の前で
( 右から『開墾風景』、『山焼きの後』、「『洗濯をする女』)

 資料館には、ブラジルの日系画家である半田知雄(1906-1996)による油絵が、3枚展示されている。
  半田氏は、栃木県鹿沼市の出身で、1917年(大正6年)に11歳で父母と共に「若狭丸」で着伯、コーヒー農園に就労した。
  4年後に苦学を目指してサンパウロ市に移り、ブラジル語の勉強と共に絵画の修行も始めた。1935年、29歳でサンパウロ美術学校を卒業し、仲間とともにサンパウロ美術研究会(聖美会)を結成した。以後、日本語教師をしながら画家としての活動を始め、日本やヨーロッパ各国も訪問しているが、題材は移民や農民、農村などが中心である。
  ここに展示されている『開墾風景』(制作年不明、1065×880)は、農村での種まき作業のようすである。右の人物が使用している農具はプランタデイラ(Plantadeira)と呼ばれる播種器で、当時、わが国の少面積の畑作業で行われていたように、植穴を掘って手で1粒ないし数粒づつ腰をかがめながら播くのに比べると、大変能率的である。
  また『山焼きの後』(1972年、730×920)は、焼畑農業で、原始林ないし再生林を伐採して山焼きをした後、陸稲、トウモロコシなどの一年生の食用作物を栽培する、焼畑農業のようすを示す馴染み深い絵である。
  『洗濯をする女』(1939年、495×405)は、移住地近くの水辺で洗濯をしている農業移住者の妻たちの姿を描いたもので、現在でも電化されていないアマゾン僻地農村などでは、このような伝統的な風景を散見できる。通算12年をブラジルに暮らした私にとっては懐かしい風景である。
  余談になるが、昨年NHKで放映されて話題になった、ブラジル移民をテーマとしたドラマ「ハルとナツ」の台本をもとに構成された同名の書籍の表紙の絵も、半田氏によるもので、コーヒー園で男女がコーヒーを収穫・選別作業をする様子が描かれている。
  これらの絵に触れる機会にあわせて、是非読んでいただきたいのが、同氏著の『移民の生活の歴史』(1970年)、『今なお旅路にあり』(1966年)の二冊で、ブラジル移民の姿を映した極めて有益な書籍である。また、晩年の同氏は、サンパウロ人文科学研究所の理事として、『ブラジル日本移民史年表』(1976年)の編者もつとめ、日系画壇の長老であると同時に、記録作家でもあった。

※これらの書籍は、図書資料室(海外移住)にて閲覧可能です。

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2007年1月

 ララ物資と故郷への送金
ボランティア 山縣 正安

「ララ物資」の展示の前で
「ララ物資」の展示の前で

 来館者の皆さんに展示の説明をする時に、より身近に感じていただくために自分の経験をベースにして説明するようにしていますが、その一つが「海外移住の歴史」コーナーの第X期「戦後移住のはじまり」で展示されている「ララ物資」です。
  私が小学生の頃、学校給食としてスキム・ミルクが出されていました。当時は、何の味もしないミルクを飲んで、「どうしてこんなまずいものを飲ませるのか」という気持ちで一杯でした。また、女子はシラミ退治のためのDDT撒布で頭が真っ白になっていたのを思い出します。
  これらの食料品や医薬品そして衣類などが、「ララ物資」と呼ばれるもので、南北アメリカの在留邦人・日系人などからおくられた日本への救援物資だったということを知ったのは、ずっと後になってからのことでした。そこには、移住先国で味わった苦労・困難はさておいても、戦争に負け荒廃した母国日本の復興を支援してくれた、移住者のあたたかい郷土愛を感じることができます。
  また、館内には、移住者から故郷へ送金された額を表すグラフも展示されています(「新世界に参加す」コーナーの「なぜ海外へ行ったのか」に展示)。このグラフには広島県出身者による故郷への送金が表されていますが、私が以前沖縄で勤務していた際に訪れた南風原町立南風原文化センターの資料によると、昭和8年における沖縄県出身移住者からの送金額は約200万円であり、同年の県予算額のほぼ40%にあたり、現在貨にすると1500億円に相当するとありました。私もこれを知ったときは非常に驚いたものですが、展示を説明する際にこの話をあわせて紹介すると来館者の皆さんもとても驚かれます。
  「ララ物資」は既に死語となりつつあり、また、かつては日本から南米へ出稼ぎに向かった流れが逆となっている現在では、移住者による祖国への支援を知る人も一部に限られてきてしまいましたが、これらの展示から、移住者の祖国への気持ちにも、思いを馳せていただければと思います。 (談)


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2006年12月

 フェイジョアーダ
ボランティア 安田 幸雄

「ごちそうテーブル」のフェイジョアーダ
「ごちそうテーブル」のフェイジョアーダ

  「ごちそうテーブル」にならぶフェイジョアーダ(feijoada)は、黒豆(フェイジョン)、干し肉、豚肉(耳、尾、足など)を煮込んだ、ブラジルで一般的な料理の一つです。この料理は、ブラジル東部のバイア州が起源といわれています。
  バイア州の州都サルバドールは、1763年までポルトガル植民地時代のブラジルの首府として栄えた都市で、現在も、当時の古い街並みが残り、“碁盤の目”状になった街路は、急勾配の坂道が多いため、「泥棒も追いかけられると息が切れて逃げ切れない」とも言われています。また、ここはサトウキビ栽培のためにアフリカから連れてこられた奴隷労働者の貿易港でもありました。現在も、アフリカ系の住民が多く暮らしています。
  フェイジョアーダの起源は、一説には、当時の支配者であったポルトガル系の白人が豚を解体した際に処分していた内臓や耳などを、黒人奴隷が弱火でじっくりと煮込んで食べたことから始まったともいわれています。安価な食材で作れて、美味しく、しかも栄養価も高いことから、フェイジョアーダは、高温多湿なバイア州の気候で働く労働者たちに適した料理として定着していきました。そしてその後はブラジル全土へと広がり、今ではで一般的なブラジル料理となっています。これに、マンジョカ芋の粉(Farinhaファリーナ)をかけて食べると、独特なうまさが出るのです。
  日本人移住者達も、フェイジョアーダを日々の料理に取り入れています。私も、バイア州にあるジョタカやイツベラといった日本人移住地を巡回訪問した際に、移住者の家庭で何度かご馳走になりました。開拓途上の段階にある移住地では、生活環境の整備が追いつかず、蝿が多く、「豆か蝿か」とビックリしたこともありましたが、移住者の方々の作るフェイジョアーダは、バイア州本場の味そのもので、今でもなつかしく思います。

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2006年11月

 アマゾンのジュート栽培
ボランティア 鏑木 功

「アマゾンのジュート栽培」の絵
「アマゾンのジュート栽培」の絵

 資料館に入ってすぐの右壁に、一枚のアクリル画が展示されている。ここに描かれているのはアマゾンでのジュート栽培の様子である。アマゾンに在住する安井宇宙氏によるこの一幅の絵は、当資料館の依頼を受けて描かれたものである。
 ブラジルでの日本移民への評価の中で最も高い評価を受けたのは、アマゾンの二大産業となったトメアスのピメンタ(こしょう)とアマゾン河中流でのジュート生産である。
 1930年頃のブラジルでは、コーヒーや雑穀類の運搬に欠かせない麻袋の原料となるジュートを全てインドからの輸入に依存し、その量は年間4〜5万トンで多額の外貨を必要としていた。これが、1931年からアマゾンへ入植した高等拓殖学校卒業生を中心とした日本移民団の大変な努力の結果、「尾山種」と呼ばれるジュートの育成が成功したことによって、国内消費を満たすばかりか北米に輸出し、外貨を稼ぐまでの産業となったのである。
 このアクリル画には、指2本程の太さのジュートの刈り取り、収穫したジュートを束ねて水中に埋め、腐食した表皮の洗い流すところ、繊維部分の剥離、天日干し、梱包などの作業のほか、北米貿易船への積込み風景までが描かれていて、当時のジュート産業の様子を見ることができる。また、アマゾン特有のモングベーラ樹(赤い実の中に綿が詰まっていて、移民達はこれで布団や枕を作った)、アマゾンの魚タンバキを食べる女性労働者、水中を泳ぐ珍魚アロワナなど、アマゾンの多彩な風物が描かれている。ちなみに作者の遊び心で描かれた人魚の尾は、ピラルクーの尾の色合いで描かれている。


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2006年10月

 大地に挑む
ボランティア 新保 猛

「大地に挑む」のコーナー
「大地に挑む」のコーナーの前で

 「大地に挑む」のコーナーに並べられた農具の数々。私にとっては移住者を身近に感じ、また自分の経験と併せて懐かしい気持ちになる展示品の一つです。
  ここに展示されている農具は、移住者が移住先の国々で使っていた品ですが、背負子(しょいこ)や鍬(くわ)などは、私が生まれ育った農家で使われていたものとほとんど同じです。これらの身近で懐かしい農具を見ると、移住当初、移住者が大地にむかっていった様子だけでなく、今の日本では消え去った日本農業の原風景も感じることができます。
 私はここでボランティアとして活動するようになるまで、日本人の海外移住についてほとんど知識がありませんでした。しかし、私が1960年代の高度成長期の日本で必死に働いていたのと同じころ、地球の反対側では多くの移住者が悪戦苦闘していた事実を知ったとき、彼らに対し一時代を共有した同志のような感動を覚えました。
  展示品や移住者の生活は、今の暮らしや人生とかけ離れたものではありません。それと同時に、海外移住という“人類の流れの歴史”は、非常に興味深いテーマでもあると感じています。来館者の皆さんにも、まずは身近なところから、海外移住という“人類の流れの歴史”を感じていただければと思います。(談)


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2006年09月

 イグアス移住地のマカダミア・ナッツ
  〜日系二世と技術の「接木」〜
ボランティア  八重尾 直忠

マカダミア・ナッツの接木
マカダミア・ナッツの接木

 “イグアス移住地のマカダミア・ナッツ(以下、マカダミア)”。この栽培が本格的に始まったのは1994年、私がJICAの専門家としてイグアス移住地にあるセタパル(JICAパラグアイ農業総合試験場)に赴任した年のことです。
  イグアスでは、1990年頃から数軒の日系農家がマカダミアの栽培を試していましたが、その可能性は未知数でした。それを見た私の前任のJICA専門家は、パラグアイ各地に点在する既存のマカダミア(約20本)の個体調査を実施し、その結果を「生産の可能性あり」としていました。
  着任してそれを見た私は、さっそくセタパルでの同意を取り付け、ブラジルのサルバドールへ飛び、日系農家からその種を分けてもらいました。接木苗は高価なので、今後の普及を考えて、種から苗を育てるところから始めたのです。
  種を持ち込む際には国境で止められ、パラグアイの農牧省(MAG: Ministerio de Agricultura y Ganaderia、以下MAG)にかけあって通してもらうというアクシデントもありました。しかし種は無事発芽し、接木も約80%という高い成功率をおさめ、イグアスの日系農家へ配布されました。
  すると、この活動を見たMAGから「ぜひ全パラグアイに普及してほしい」という話が舞い込みました。MAGも、マカダミアの輸出作物としての将来性の高さに注目したのです。
  それから私は、MAGの指定した農協や農業高校へその栽培指導にまわりました。この巡回指導には、常にセタパルの日系二世の職員を帯同しました。はじめはマカダミアのことをほとんど知らなかった彼も、私とともに指導に当たるなかで、栽培方法から接木の技術まで習得し、現在はその第一人者となっています。
 マカダミアは種をまいてから収穫までは約6年かかります。イグアス農協では2001年から収穫が始まりました。イグアスの日系農家の協力のもと、私から日系社会へと接木されたマカダミアは、現在日系農家を中心としてパラグアイの一つの産業として育っていっています。(談)

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2006年08月

 さまざまな「色」 ヤスイさんの場合
ボランティア 樋泉 武

「萬屋」の前で
「萬屋」の前で

 NHKの「ラジオ深夜便」で、作家の五木寛之氏が、各時代に流行していた歌とともに自身の人生をふり返るという番組が続いています。その中で印象的だったのは「時代は一色(ひといろ)でない」というコメントです。その年に流行した歌謡曲も、それに対する個人の印象もさまざまといった意味と思いますが、海外移住資料館でこの言葉を実感するのが、移住者による証言映像の数々です。
  「証言映像コーナー」では戦前・戦中・戦後の3つの区分に分かれて、日系人による証言映像を見ることができますが、その内容はさまざまです。 たとえば、第二次世界大戦勃発後のアメリカ。日系人たちは敵性外国人として財産を没収されて収容所へ隔離され、つらい日々をすごしたということが語られますが、そんな時代でも証言者ホーマー・ヤスイさん(二世、アメリカ)のプロフィールには「収容所生活の後、仮釈放許可を得てデンバー大学で医学を学んだ」とあり、もちろんさまざまな制限や困難の中であったことは想像に難くありませんが、そんな中でも、道を切り開いていったことが感じられます。
  なお、「どんな暮らしをしたのか」コーナーに展示されている萬屋(よろずや)は、このホーマーさんのお父さんたちが経営していたお店(安井兄弟商会)です。カウンターのチラシからは、日用雑貨の販売はもとより、保険の代理業、乗船券の手配、仕事先の紹介など、実にさまざまなサービスを提供していたことがわかり、萬屋が物流と情報のセンターになっていたこともうかがえます。もしかしたら、ここでの豊富な人脈やネットワークが、若きホーマー青年の活路を拓く上での影響をあたえていたのかもしれません。
 ホーマーさんの証言映像では、お父さんが渡航にいたるまでの経緯や移住当初の仕事などを聞くことができます。一人ひとりの証言からそれぞれの人生に思いをはせると、実にそれらが一色ではないことを感じます。(談)

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2006年07月

 ドラム缶ドラマ
ボランティア 伊藤 宏

ドラム缶をかこんで
ドラム缶をかこんで

 「最後の移民船にっぽん丸」のコーナーには青いドラム缶が展示されています。移住者の中には荷物をこのようなドラム缶につめて移住した方も多くいます。
  なぜドラム缶? それは、現地で風呂にするためです。はじめは先輩移住者から「持っていってよかった」という口コミだったかもしれませんが、1960年代には各地方自治体の移住相談などでも必需携行品として案内していました。移住者の多くは、渡航前に2週間ほど横浜の移住センターに滞在する間に、そこに入っている業者へドラム缶を注文していました。ドラム缶の値段はその頃の価格で3,500円ぐらい(今でいうと1万円ぐらい)。移住先では、踏み段をつけたり上部を切って深さを調節したりしてドラム缶風呂を作り、開拓作業の汗を流しました。ドラム缶は単なる荷物の入れものではなく、そのものが移住時の必需携行品だったのです。
  1971年に、私もアルゼンチンのウルキッサ移住地に入植して3年目の家で、ドラム缶風呂に入りました。初めて入ったときは、木の板が浮いているのでフタかと思って取って入り、底が熱くて飛び出してしまいました(ドラム缶風呂は、薪を燃やしてわかすので、板を踏みながら入る)。それでも露天のドラム缶風呂から月を眺めたのはいい思い出です。若い見学者の方にこの話をすると「私も入ってみたい!」といわれることもあります。
  その後、生活が安定し立派な家が建つようになるとドラム缶風呂は姿を消し、飛行機で移住する時代に入ると荷物の重量制限からドラム缶を持参する人も減っていきました。移住に欠かせなかったドラム缶。ここから開拓当初の生活とその苦労も伝えることができればと思っています。

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2006年6月

 私が海外移住資料館で一番好きな言葉
ボランティア 長瀬 威

「われら新世界に参加す」
壁面に掲げられた言葉

 「われら新世界に参加す」―。この海外移住資料館の基本理念であるこの言葉に私が出会ったのは、今から28年前の1978年6月のことです。当時、サンパウロで「ブラジル日本移民70周年祭」の記念事業の一つとして「日伯新時代と国際シンポジウム」が開かれ、ここで梅棹忠夫先生(国立民族学博物館館長(当時))は、この「われら新世界に参加す」というテーマで基調演説を行われたのです。
  この演説を拝聴したときの深い感動は、今でも鮮明に思い出すことができます。過去、多くの日本人がもっていた移住者観には、「異境の地で苦難に遭い、終生望郷の念を抱き続けた人々」といった暗いものが定着していました。ところが梅棹先生は、そういった視覚から大きく転じ、日本人移住者は、人類史の流れの中で、新世界の文明形成にいろいろな角度から参加し、それぞれの役割を果たしてきたと位置づけられたのです。
  この言葉は、28年たった今も新鮮なメッセージを発信し続けています。この資料館で私がボランティアとして活動しているのも、この言葉の持つ強いエネルギーが影響しているようにも感じています。
  私はこの言葉を、展示などを通して来館者の皆さんにリアルに伝えていきたいと思っています。特に青少年の皆さんには、移住者の勇気と不屈の精神、そして異文化社会をたくましく生きぬいた知恵を学んでいただくことで、将来グローバルな視野と大きな夢を持って広い世界に羽ばたく力を得る一助となれればと思っています。(談)

梅棹忠夫先生の基調演説を収録した『われら新世界に参加す ブラジル移住70周年国際シンポジウム』(毎日新聞社編、1978年)図書資料室で閲覧できます。『海外移住の意義を求めて』 (外務省、国際協力事業団、1978年)にも、梅棹忠夫先生の講演が掲載されています。

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2006年5月

 綿畑の風景から
ボランティア 松田潤治郎

アサイの綿畑の映像の前で
アサイの綿畑の映像の前で

 大型三面スクリーンに映し出される広大な大地。この「新世界の風景」には、移住者が渡航した先の風景を紹介しています。この映像のエンディングには夕日が綿畑の中に沈んでいくシーンが映し出されますが、これはブラジルのパラナ州にあるアサイの綿畑です。
  アサイは1932年に、ブラジル拓殖組合によって最後に開設されたトレスバラス移住地の市街地でした。 1950年後半から60年代頃のアサイは綿花の生産でブラジル一を誇り、日系はもちろん、アメリカやアルゼンチンなどの大手商社による製綿工場が進出していました。これらの工場はお金を出し合って協会を設立し、一流大学卒の農学士を雇い、農家の啓蒙活動を行っていました。彼らは各地の農家を巡回して栽培技術の指導などを行います。ある学士は奥さんの協力を得て作成した紙芝居を片手に、病害虫の様子や農薬の使い方やなどを指導していました。1963年から64年の収穫期(2〜3月)に、実習生であった私もその巡回に同行しましたが、熱心に見入る労働者の姿が印象的でした。当時は、農場主である日本人移住者の中にも、農薬の使い方を誤って吸い込んで肝臓を悪くしたり、農薬中毒を起こす人もいたのです。
  その後、綿の栽培は化学繊維の進出による需要の低下により下火になり、現在はその大半が大豆畑に姿を変えてきているようです。なお「新世界の風景」の始まりは、隣国パラグアイのイグアス移住地の大豆畑にのぼる朝日です。 (談)

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2006年4月

 赤道を越えた移住者の夢
ボランティア 上村 昌司 

赤道祭の写真を解説

 「戦後の南米移住」のコーナーでは移住船内で行われた「赤道祭」の写真を展示しています。東回り航路では、太平洋を越えてパナマ運河を渡ったのち、「赤道祭(せきどうさい)」が行われます。「赤道祭」は赤道を越えるときに行われる船中行事で、仮装大会や餅つきをしたり食事にごちそうが出たりと、航海中の一大イベントです。船会社は、長い船旅を快適に過ごすためにさまざまなサービスを提供していました。移住先で必要なポルトガル語・スペイン語のクラスや運動会などの行事は、単調になりがちな船の旅にリズムをつけるものでもありました。はじめは船酔いに苦しんでいた人々も、なれてくると船から提供された短波放送のニュースをもとに船内新聞を発行したり、行事を企画したりするようになっていきます。
  船という閉ざされた空間の人間関係で、ときには恋愛沙汰でケンカがおきることもありました。しかし移住という夢を持った移住者たちは、日本に一時帰国し再渡航で乗船していた人から現地の事情を熱心に聞いたりしながら、移住先での生活の夢を育てていきました。そしていよいよ赤道を越える瞬間には「とうとう南半球まで来た」という感動や厳粛さがあり、私もS35年に移民助監督として移住者に同行したのですが、とても感激したのを覚えています。
  飛行機で一気に移動する今とは違い、長い時間をかけて海をわたった移住者たちの夢やロマン。「赤道祭」の写真から、そんな気持ちを皆さんに伝えられたらと思います。また、 「最後の移民船にっぽん丸」のコーナーでは、赤道通過記念証が飾られています。移住後も思い出の品として大切にした移住者も多かったことと思います。こちらもぜひご覧ください。(談)

 
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