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ボランティア日記バックナンバー


「ボランティア日記」

ボランティア日記のバックナンバーを公開しています。

「日系人の混血」

2013年12月12日
ボランティア 堀口 進一


 今夏、館内の照明がLEDに切りかえられ、リニューアルとまではいかないまでも、それまでのやや薄暗かった雰囲気が明るいものに一変した。とくに視力の弱い私にとっては展示物や解説パネルの文字等が見やすくなり、改めて読み直してみたりした。来館者の中にも高齢者など視力の弱い人は少なくないと考えられるので、照明を明るくしたことは大きな改善になったとよろこんでいる。さらに館内が明るくなったことで、移住全般についてのイメージをも明るいものにしてくれる効果につながってくれればよいと願っている。
現在、開催されている特別企画展のテーマは「日系人と混血」であるが、先頃、企画制作に携わった学芸担当者による解説があり、大変興味深く拝聴させて頂いた。長年移住事業に従事し、この間ブラジルやアルゼンチンでは様々な立場の日系人と接してきた私だが、これまで日系人の混血の進展状況やまたそれらの人々の意識、アイデンティティについて深く考えたことはなかった。
今回の企画展や学芸担当者の話で、日系人の混血が想像していた以上に進んでいること、また彼等の意識、自己認識が実に多様であることに改めて認識させられた次第である。日本のような人種的、民族的、歴史文化面などいわゆる単一民族国家では混血の実態にふれることが少なく、したがって問題意識も乏しいと思われるが、今後地球規模での国家間、民族間の交流が増々盛んになるにつれ、いずれ数百年後には、混血人種が世界人類の主流になっていくであろうし、アメリカやブラジルはその先端を走っていると考えられる。
これまでの移住者に対する見方、あるいは移住事業のもつ意味などにおいて、従来の認識ではカバーできない分野が拓けてきているように感じられた。


「結婚式 −ボリビア、サンフアン−」

2013年11月22日
ボランティア 安田 幸雄


 ある時、可愛い3歳位の女の子を伴うお母さんが、ニッケイ・ライフ・ヒストリーのコーナーにある新婦の写真の姿を笑顔でご覧になっており、当時の披露宴の料理、式場で働くご婦人などについて色々と質問をされました。  1955年(昭和30年)から1960年代までの結婚式は移民船の船団に属している地域の人々を招いて行っていたのです。式場は自宅が多く、広い庭にテントを張り、即製の板を並べたテーブルに、地区の小学校から借用した長椅子を並べて席を作り、正面席には日本とボリビアの国旗が飾られました。
料理の食材は男たちが川から釣った魚や自家製の鳥肉と牛肉、貴重だった日本製の「のり」「こんぶ」に手製の豆腐などが使われた純日本風の料理でした。材料が限られていたせいか、巻き寿司、いなり寿司、刺身、天ぷら、紅白の餅、赤飯、酢物、フライと並べられる料理は限られていましたが、他にこのような機会が少ない移住地では、作る方にとっては腕の振るい時でもあり、招かれる方にとってはめったにない賞味の機会でもあったのです。
新婦はとっておきの訪問着や紋付振袖が多く、新郎は背広が普通で、たまに紋付姿もみられました。招待客の多くは衣服の管理が悪いせいか、くたびれた背広や純白さを失ったワイシャツ、はき物は道路事情が悪いので半長靴が多く見られました。
席に着いている女性といえば親戚にあたる人くらいで、殆どの女性たちは前日からの料理の手伝いに忙しく、エプロンかけに長靴をはいたまま、その日を過ごしたのです。
1970年代に入ると、農家経済は向上し生活環境は好転してきたため、披露宴は華やかさを増し、招待客も100人から300人と増えてきました。移住地の人々が親戚関係にあるような土地柄での結婚式は盛大に催されることが普通でした。
若い青年たちはダークスーツに身を固めて出席します。2人のために大きな手づくりのウェディングケーキも用意され、花嫁がウェディングドレスから着物に着替えるお色直しも行われます。結婚して移住地にとどまる二人に対するお祝いは、本人だけのものではなく移住地のお祝いごとなのです。
近年は不況とはいえ、年々披露宴は盛大さを増していますが、交友関係がボリビア社会へと広がりつつあることを反映してか、ボリビア人の招待客が増える一方、狭い日系社会で姻戚関係は増々広がり、かつ濃度を増してゆくことは当然の傾向かもしれません。


「優しき平和の使節〜横浜市からポートランドへ贈られたバラ」

2013年11月6日
ボランティア 松下 里織


 資料館入り口の「ポートランドの野菜山車」は日本人移民の移住先国への参加と貢献を象徴するものです。この野菜山車が作られたのは大正時代ですが、それより前の明治時代に横浜市からポートランドに日本産のバラが贈られました。カナダの邦字新聞によると、当時アメリカでは、このバラが到着する前から「横浜市民と日本人全般によるポートランド市民と米国人全般に対する好意の表彰」であるとして、バラの贈り物をたいへん喜んだそうです。野菜山車を飾ったバラは、もしかしたらこの時に贈られたバラの子孫ではと勝手な想像をしています。資料館へは国内のみならず世界各地からお客様が来られます。横浜市から贈られたこのバラのように、国と国の友好に少しでも貢献することができるよう世界各地から来られる来館者をお迎えしたいと思います。

参考:『大陸日報』明治43年3月26日付


「ハワイからのみなさんとの楽しい出会い」

2013年10月9日
ボランティア 松田潤治郎


 展示案内をしていて、ご質問をいただいたり、時には教えていただくこともあります。展示されているモノや人物について、情報をいただいたときは、本当にありがたいと思います。さらにお互いの話も弾み、楽しんでいただき、満足していただけることもあります。
6月5日水曜日、横浜港大桟橋に着岸した豪華客船サンプリンセス号(総トン数77000トン)から、ハワイからの日系人を含む観光団一行32名が来館されました。
ホレホレ節を聴くコーナーではヘッドホーンが2個しかないので、一度に二人しか聴けませんとご案内すると、「それでしたら、みんなに聞こえるようにあなたが歌いなさい」と、明るくユーモラスな注文です。「行こかメリケンよ〜。帰ろかニホン。ここが思案のハワイ国」と、少し照れながら思い切り歌い、たくさんの拍手をいただきました。展示案内を始めて10年、来館者の前で歌うという初めての事件でした。
ビックファミリーのコーナーでは、大写真がハワイのマウイ島だったことから、三世のヤツシロ・セイイチさんをご存じの方や、写真の中の人物を指し、数人の方からサイキさんだ、あれはタニグチさん、これはミヤシロさんと、宝探しのように賑わいました。ありがたいことに、この写真の場所がワイルク(Wailuku)という丘で、カウルイ(Kahului)港の近くであると教えてくれました。ライセンスのある通訳さんのおかげもあって、一時間ほどたっぷり楽しんでいただきました。わたしにとっても楽しい出会いのあった一日でした。 


「移民の町」

2013年9月27日
ボランティア 平岩 教子


 先日沖縄に行って参りました。初めての沖縄、サトウキビ畑が広がるような風景を想像していたのですが、飛行機から見る風景は丘陵地帯が続き、那覇中心部は丘の上に家々が密集していてびっくりしました。
初日は那覇市おもろまちにある「沖縄県立博物館」の常設展を見学しました。沖縄の自然・歴史・文化、さらに、沖縄の近代のコーナーでは移民関連の展示もあり、沖縄についてじっくり学ぶことができます。
2日目は「南風原(はえばる)町立南風原文化センター」に行きました。那覇からバスで約30分、車窓から見る風景は起伏のある丘陵地帯でした。歴史や沖縄戦に関する展示のほかに、移民コーナーや昔の暮らしを再現した展示もあります。南風原町からは多くの人々がハワイやブラジルに渡っています。第1回笠戸丸でのブラジル行き移民781名中325名が沖縄県出身、うち45名が南風原町出身者です。建物の外には「南風原移民の碑」があり、まさに移民の町なのです。
短期間でしたが、沖縄の歴史や風習、食文化を学び、移住の背景を知ることができ、とても有意義な旅でした。次回はゆっくりと沖縄各地を回ってみたいと思います。皆様もぜひ、沖縄から見た海外移住の歴史を探りに行ってみてはいかがでしょうか。


「ハワイ出稼移民 阪 庄七さんのナゾ」

2013年9月12日
ボランティア 塙 博


 「第一回ハワイ官約移民」の一員であった「阪 庄七さんと家族」の「労働契約書」、「パスポート」、「ハワイ出稼人名簿」、「シティ・オブ・トウキョウ号の写真」、「金槌を振り上げている阪 庄七さんの写真」、の各複製物が海外移住歴史コーナーの「U期 海外出稼ぎの始まり」のガラスケースに展示されています。
以前からこの展示品を見るたびに疑問に思っていたことがあります。それは@金槌を振り上げている「阪 庄七さん」はどんな仕事をしていたのか、A「阪 庄七さん」は何故出稼ぎ移民に応募したのか、B農業従事者とは思えぬ「阪 庄七さん」がなぜ出稼ぎ移民として採用されたのかでした。このたび、図らずも下記の参考文献からそのナゾが判明しましたのでご紹介致します。
「阪 庄七さん」は旧姓を山崎庄七さんといい、山梨県出身で、幼少時に「阪 家」に養子に入り、銅、真鍮の細工職人として修業し、後に横浜で名のある親方の下で働いていました。当時日本を代表する陶工「宮川香山」の横浜真葛焼きは世界的に評価され、特に1878年(明治11年)のパリ万国博覧会に出品し、金賞を受賞した陶器(6尺の花瓶)の台座(金属細工を施した木製品)を下請作成した程の腕の立つ金工細工職人でした。出稼ぎ移民募集では「労働契約任期満了の3年間で400円が貯蓄できる」とか「ハワイには酒が一滴もない」等の噂が広まっていました。酒飲みの「阪 庄七さん」に手を焼いていた妻チカさんは、この噂話に飛びつき、気の進まない夫を説得して出稼ぎ移民に潜り込みました。妻チカさんは農業従事の経験を偽装するために、牛蒡のアクで手を黒く汚したり、髪をカットしたりして面接ではいろいろ苦労したようです。ハワイへは妻チカさんと三男、四男を伴い、ハワイのサトウキビ耕地のカウアイ島、マウイ島へ入植し、後に長女、次女をマウイ島で出産しています。日露戦争勃発時(1904年)頃に妻チカさんが亡くなり、一家はオアフ島ホノルルへ転住して、金工細工店を開き、次女ラクさんが接客して父の店を助けました。「金槌を振り上げている阪 庄七さん」の写真はこの頃に撮影したものと推察されます。「阪 庄七さん」はその後も一人で店を切り盛りしていましたが、老齢化で体力が衰えてきましたので閉店し、結婚後マウイ島に居住していた次女ラクさんに引き取られ、後に亡くなりました。金工細工の遺品の一部(銅製の急須、銅製のクリーム入れ)はハワイのビショップ博物館の一部であった「ハワイ移住資料保存館(1985年閉館)」に所蔵されていたとのことです。

(参考文献)
「ハワイ出稼人名簿始末記―日系移民百年―;山崎俊一著、日本放送出版協会 1985年」。


「世界の富士山」

2013年8月29日
ボランティア 樋泉 武

 今年7月、富士山がユネスコの世界文化遺産に登録されました。
私の育った甲府盆地の南東方にある富士山は、ほとんど通年白い雪をかぶり、御坂山塊などの間からわずかに台形の頂部を見せる小さな姿でした。しかし、盆地の北方にそびえる八ヶ岳と高さを競い、八ヶ岳より低いと判定された富士山の女神は、太い丸太んぼうで、男神の八ヶ岳をなぐりつけて頭を八つにわって低くし、富士山が日本一高いと今ではすましているヤンチャな女神の住む山として親しんできました。
近在各所から眺望される姿は、浮世絵などにも多数描かれています。また、日本各地には薩摩富士、蝦夷富士などのご当地富士が多数存在し、富士講や富士塚がつくられ、信仰の対象として登山や巡礼が行われてきました。日本の富士山は生活に密着し、人生の一コマと重なって日本人の心に深く刻まれているように思います。


 アメリカ合衆国西海岸のオレゴン州にも、多くの日本人・日系人が活躍しています。そして当館常設展示室にある大型三面マルチ映像には、一瞬ですがオレゴンの日系人たちが心の拠り所としていた「オレゴン富士」(フッド山)が投影されます。
1980年代のテレビドラマ『オレゴンから愛』では、両親を亡くした幼い姉弟のうち、姉は日本に残って中学に通い、オレゴン州に住む叔母夫婦にひきとられることになった弟は異郷で生活することになります。オレゴンの大自然の中で、たくましく成長する少年ではありましたが、ふと、日本が恋しくなり、「お姉ちゃーーん!」と呼びかける視線の先には、「オレゴン富士」がありました。
田代博著『世界の「富士山」』 新日本出版社 2012年 によると、世界各国の日本人・日系人に親しまれる「○○富士」は、60峰ちかくあるそうです。


「−−−−や、強者(つわもの)どもが夢のあと」

2013年8月15日
ボランティア 長瀬 威


 弊館中央ホールの壁面に、私の思い出を大きく膨らませ、松尾芭蕉の或る句の情景を彷彿とさせる所があります。そこには、工業技術移住の啓発用ポスター『技術移住者あっせん』が展示されているのです。このポスターは海外移住事業団時代(昭和38/7〜49/7)に使用されたもので、それには「相談は都道府県海外協会か公共職業安定所へ」と呼びかけていることにお気づきでしょう。当時は、労働省の職業安定所、即ち、今のハローワークでも南米への技術移住のあっせんを窓口業務としていたのです。
さて、昭和28年頃から農業移住に加えて、工業技術移住が開始されました。この移住方式は、JICAやその前身機関の現地サンパウロ支部、ブエノスアイレス支部が就職あっせん活動を行ったのです。従って、移住者の渡航前には就労先が決まっていたのです。
昭和40年にはサンパウロ支部管内に、技術移住者が現地到着後、適応訓練を行うための「工業移住センター」が建設されました。場所は市の郊外にあるParque(パルケ) Novo(ノーヴォ) Mundo(ムンド)(新世界公園)地区の小高い丘の上でした。素敵な地名ですね。新移住者到着地に相応しい名前です。ここに日本から到着したばかりの技術移住者を2週間余り入所させ、新天地適応に必要な各種知識の研修が行われました。講師陣には、「二世会」に所属する二世の方々がボランティアで、献身的にご協力下さったのです。また、既に就労している技術移住者に対しては、センター職員が定着安定を支援するため、定期的に企業や家庭を訪問し、定着状況や問題点、要望等を訊き、諸問題解決のための巡回相談を行っていました。
昭和54年、伯国側の意向からJICA現地法人の撤収が決まり、日系コロニアの要望により、同センター敷地に日系人の医療福祉を支援する総合病院を建設することになりました。JICAから同センターの譲渡及び日伯両国企業や団体からの寄付金等により、昭和63年に30科を擁する「日伯友好病院」が竣工したのです。現在も、日系及び現地の方々のための医療活動に大いに貢献しています。なお、「工業移住者協会」の初代会長であった(故)岡本文郎氏のご子息が、同病院の院長補佐役を務められているとのことです。
時は移り、このParque Novo Mundoからブラジル社会に夢と勇気を持って第一歩を踏み出した「強者(つわもの)ども」は、第一線を退き、今や子供達の時代になりました。しかし、一世達がブラジルに持ち込んだ当時の日本人の心意気は、今でも脈々と受け継がれ、両国の強い絆となっているのです。古戦場、思い起こせば感慨無量−−「Parque Novo Mundoや、強者どもが夢のあと」。


「草履と下駄、履物雑感」

2013年8月1日
ボランティア 新保 猛


 当館展示室に珍しい品物がある。移住者の荷物の中にある女物の草履と下駄。他にも萬屋、安井商会の棚の中に下駄と草履(サンダルか?)が。若い人は「何だ?」というが、昭和30年代頃迄多くの人が履いていた。男性も和服に立派な下駄や草履を履いた。作業用には板裏草履(裏に木片を付け足裏からの断熱用)を履いた。
下駄も松から会津桐の高級品迄あった。表に竹皮やたたみ表を張ったもの等。男物も女物に引けをとらなかった。単なる履物に付加価値を生み出した庶民の知恵か。
靴中心の履物の中にあって大きな存在感を示す草履や下駄を見ると郷愁を覚える。


「ハワイ日系3世代家族の来館」

2013年7月19日
ボランティア 鏑木 功


 5月末の或る日、80代後半と思われる日系二世の老母を伴った3世代家族の6人が来館された。その様子を見ていると、老母の最大の関心事は両親など1世の人々がハワイでどんな苦労を重ねて来たのかを改めて省みたいとする姿が伺えた。そこで、デジタル移住コーナーのパソコンに収録されている「海を渡った花嫁」の中から3名のハワイ移民一世の証言映像を聞いて頂くことをおすすめした。
一方、三世となる息子さん(60才代)は、同じコーナーにある日系人としてのアイデンティティについて語るブラジル・ペルーなど日系人の証言映像に特に関心を持たれたようで、長時間にわたって見ている姿が印象的であった。
同じ日本人の血を継ぐ者として、それぞれ異なる国々で生まれ育った日系人のアイデンティティの違いについてどのように思われたかについて尋ねてみたい気持ちにかられたが遠慮することとした。
帰られる際「大変興味深いミュージアムだ、ハワイに帰ったら人々にも紹介したい」と展示案内カタログを大事そうにバッグに入れると共に、このような資料館を創設したJICAに対し感謝の言葉を残された。


「移住先駆者が開いた道」

2013年7月4日
ボランティア 大橋 輝美


 日本人の海外移住はハワイへの元年者(1868年)から始まり、時代を追って北米から中南米各国へと続きます。初期の移民はいろいろな苦労があったのですね。来館者へ展示資料や文献を示しながら説明します。図書資料室の国別移住史を紐とくと、それぞれの国への第一回契約移民の記録には、言葉が通じない、習慣の違い、奴隷のような扱い、過酷な労働、賃金の話が違う、口に合わない食べ物、風土病で病死者が続出、入植1年足らずの間に紛争、逃亡、転航などという共通した記述があります。
「ペルーへの第1回契約移民は過酷な労働や病気のため75%の人たちが亡くなった。全く失敗だった。」という伝承に疑問を持ったペルー新報社の飯田ファン一夫氏(日系ペルー人2世)は790人全員の足跡を調べあげました。ペルー移住100周年に当たる1999年に「日本からペルーへの第一回契約移民考証」として刊行されました。
ここには785人の消息が捕捉確認されています。死亡、逃亡、耕地名、他の国名、帰国、ブランクのままなど。背景にある命を賭した生涯を思うと・・・。ペルーへの移住は4年後の1903年から再開され、戦前だけでも82航海、約30,000人の移住者が続き、日本人コミュニティーが日を追って活発に成長しました。移住先駆者が開いた道は決して無駄ではなかったのです。
移住の歴史を説明するときは先駆者の苦労を少し味付けしてお話し、より興味と関心を高めていただけるよう心がけています。


「出会いは宝」

2013年6月19日
ボランティア 大木 彌智子


 ある日、来館者のお一人が、展示写真に見入っておられたのでお声をかけました。すると、「実は、私の祖父が明治時代にロサンゼルスに移住し、私の父はそこで生まれ、仕立屋をしていたようなんですが、父が早く亡くなってしまったので何も分からないんですよ。」と話されたので、タイミングよく開かれている企画展を見て頂き、図書資料室にご案内致しました。
暫くして、コピーを手に晴々としたお顔で「ありました。写真入りの資料も見つかったんですよ。」と一気に話され、この突然の話を「よかったですね。こんな事あるんですねぇ。」とまわりの方々とも喜びを共に致しました。
時々、展示の中の写真に「これ私のお母さんだわ」等の思わぬ出会いがあり、このような場面にふれさせて頂くことは、ボランティア活動を行う上での喜びでもあり、楽しみでもあります。
資料館と図書資料室との連携プレーで、いのちの蘇りのような事例が、これからも沢山生まれますように願っております。


「群馬県大泉町の日伯学園を訪ねて」

2013年6月7日
ボランティア 池谷 千恵子


 ボランティア研修の一環として、群馬県大泉町へ行きました。大泉町には大手企業の工場が沢山あり、その人手不足を補う形で、1990年以降多くの外国人労働者が住み始めました。特に日系ブラジル人の割合は高く、10人に1人がブラジル人とも言われています。
大泉町に2つあるブラジル学校の1つ、日伯学園を訪ねました。日伯学園には3歳から18歳迄110名の生徒が通っています。生徒達の目がキラキラと輝いていたのが印象的でした。ブラジルの教科書を使用し、ポルトガル語で授業が行われています。その上日本語の授業も加わり、8:15〜15:00迄しっかり勉強します。(因みにブラジル本国では、授業は午前または午後の半日制で、情操教育に当たる音楽・美術等はカリキュラムの中に含まれません。)
日伯学園はブラジル政府から許可されたブラジル学校ですので、ブラジルに帰国しても直ぐにブラジルの学校に編入・受験が可能です。また日伯学園の高校を卒業した後、大検を受けずとも、日本の大学を受験する資格があります。「卒業生の中には、筑波大学へ進んだ生徒もいます。」と、高野祥子学園長が嬉しそうに話しておられました。
リーマンショック後、生徒数が減少する中、日系ブラジル人の子弟の為にと、学園を経営されている学園長には、頭が下がる思いがしました。
日伯学園で学んだ生徒達が大人になった時、ブラジル・日本等と国にこだわることなくグローバルに活躍してくれることを願っています。


「6月18日は『海外移住の日』です」

2013年5月23日
ボランティア 伊藤 宏


 海外移住資料館の歴史年表第3期「定住移民のはじまり」冒頭に、最初に日本からブラジル国へ移住したのは、「1908年(明治41年)4月28日に移住者781名を乗せ神戸港を出港」とあります。神戸港を出港した笠戸丸(6,167トン)は、アフリカの喜望峰回りで52日かかって、ブラジル国のサントス港に6月18日の早朝に接岸しました。日本ではこの日を記念して6月18日を「海外移住の日」として1966年(昭和41年)に制定しました。
また、ブラジル国ではこの日を「日本移民の日」として制定して、毎年6月18日には日本人移住者等とブラジル国のサンパウロ市や州政府関係者で記念式典が開催されています。
当館でも、「海外移住の日」を記念して6/15(土)-6/18(火)の期間、イベントが開催されます(6/17を除く)。みなさまぜひご来館ください。


「ハワイ官約移民の父」

2013年5月10日
ボランティア 相磯 榮一


 ハワイ王国と日本政府の二国間の移民について「官と官の協約」という意味で官約移民と言われています。官約移民は1885(明治18)年の第1回から1894(明治27)年までの第26回で終了しました。官約移民をリードしたロバート・W・アーウィンが「ハワイ官約移民の父」と言われる人物です。またアーウィンは、アメリカ独立宣言に署名したベンジャミン・フランクリンの直系5代目の子孫にあたります。
このハワイ官約移民第1回募集では、600人募集のところ2万8000人以上の応募がありました。応募者の中から945人がハワイのホノルルに到着したのです。官約移民時代の日本人労働者は、すべて3年間の契約でした。10年ほどの期間で約2万9000人もの人が、ハワイへ渡ったのには驚きです。
当館では、明治天皇とハワイ王国のカラカウア王から授与された勲章を収蔵しています。これはアーウィンの孫でアーウィン・ユキコ氏の寄贈によるものです。
先日、青山霊園にあるアーウィン家の墓所を訪ね、墓域内の顕彰碑を見てきました。碑には「亜氏略歴」とされ、出生から日本の企業に勤務したこと等が書かれてあり、その後に「後チ日本駐剳布哇国公使ニ就任シテ日本移民ノ布哇渡航ヲ企画成功ス蓋シ之レ日本民族海外発展ノ基トナレルモノニシテ実ニ日本移民事業ノ開祖タリ」と記述してありました。移民事業の成功により叙勲されたということでしょう。顕彰碑を見ながら、「移民とは」なんなのか考えさせられたひと時でした。


「アルゼンチン3世ルーツ探しのご来館」

2013年4月18日
ボランティア 河村 憲一


 先日、祖父がブラジルからの転住者という、日系3世アルゼンチン外交官の女性が、ルーツ探しの目的を兼ねて同行者5名の方々と共に来館されました。ご一緒されたのは元JICA職員、それにカリブ海トリニダード・トバゴの某有名自動車現地法人元社長の方々でした。当館では、米国及びブラジル両国の資料が多く、既に100年を超えたアルゼンチン移住に関しての資料を見つけにくかったため、がっかりされていました。案内ガイドとして館内のアルゼンチン移住関連資料が他にもないか探していたところ、「移住者のきずな」のコーナーで「キリスト教会での茶の湯」と題した写真を発見。その方にお見せしたところ、偶然にもそれが今も母国でご健在なお母様が映っている貴重な写真の1枚である事が判り、同行者全員で大いに喜んだ次第です。 館内で彼女にとって大切な写真を見つけることができて、ガイド役として貴重な体験をさせて頂きました。


「一枚の写真から」

2013年4月11日
ボランティア 堀口 進一


 資料館の一角に私の青春時代の想い出が凝縮されたような一枚の写真がある。
1960年に撮られた外務省神戸移住あっせん所の写真である。10日間の入所期間を終えていよいよ神戸港から船出する日を迎え、あっせん所の所長やスタッフと移住者達が一緒に並んだ記念写真である。
1960年は戦後の移住者数がピークを記録した年で、移住事業にとって大きな節目となった年でもあった。
私はこの前年の10月から、翌61年の9月までの2年間を、このあっせん所内に事務室がおかれていた日本海外協会連合会神戸支部に勤務した。社会人となって最初の職場であった。
当時、毎月2回、移住船が出航していた。その都度、数百人の移住者の入退所がくり返されていたが、これら移住者の永住ビザ取得などを限られた期日内に処理しなくてはならない手続き事務が多く、連日忙殺される状態であった。
それまで、こうした仕事に全く経験のなかった私は、当初はただ右往左往するばかりであった。連日深夜まで、何回もやり直してやっと作成し、ブラジル総領事館へ提出したビザの申請書類であったが、誤記が多いと、つき返されてしまった。時間も残されておらず、途方に暮れてしまったとき、総領事館のスタッフ全員が一夜残業して全部作り直してくれた。外国の在外公館がここまでやってくれるとは前代未聞のこと。こうして移住者は無事、乗船することができた。
一枚の写真から様々な出来事が回想されるが、今になれば戦後移住の最盛期に移住者送出業務の第一線で多くの貴重な体験ができたこと、それがその後の自分にとって大きな財産になったことに感謝している。


「かつての夢の続き」

2013年4月5日
ボランティア 諸橋 茂喜


 3月24日日曜日、海外移住資料館から見る横浜港は花曇りの穏やかな日和で、周辺の桜も咲き揃い、来館者も朝から途切れなく、家族連れの多い日でした。その中に50代のご夫婦がいました。展示場を一巡して、ご主人が私に「資料が豊富で、内容も素晴らしい」と言います。訊くと、熊本県で大きな農業を営む人で、若い頃に海外移住を志し、20代半ばにブラジル等の農業を視察したのですが、事情が生じ移住は実現しなかったそうです。
戦後の海外移住は、戦前に南米へ移住した日本人が、個別にその国の許可を得て親族等を呼び寄せることから始まりました。政府渡航費貸付による組織的な移住は、昭和27年12月28日、神戸港からアマゾン流域のジュート(黄麻)栽培地に向かったのが最初でした。
その頃の日本社会は、戦争の爪あと深く、人々は衣食のことだけで精一杯でした。そこへ600万人の引揚者と住居不足、日本はいやが上にも狭くなっていました。そうした状況の中で海外移住の途を開くことは、息苦しい日本の窓を開け放ち、風通しを良くすることだ、などと論じられていました。以後、海外移住の実務機関が逐次設立され、内外一元の組織化が図られ、自営開拓、公募雇用、指名呼寄の形態で農業中心の移住者がブラジル、パラグアイ、ボリビア、アルゼンチンなどに渡航して行きました。
こうした移住者の中には多くはなかったのですが、当時、日本農業の中核を担っていた農業者も、広大な南米の地に大規模農業の夢を託して移住しました。このご主人も、この中の一人になる筈であったのでしょう。夢なかばにして海外移住は実現しませんでしたが、展示資料の中に、かつての夢の続きを見たのでしょうか。


「女性の活躍はつづく」

2013年3月28日
ボランティア 松下 里織


 History(歴史)は“His-story(彼の物語)”と言われるように、文字資料に登場するのはほとんど男性であり、女性Herが登場する事は多くありません。その女性に関する資料を多く見ることができるのも海外移住資料館の特色のひとつだと私は思います。
なかでも女性に特化した展示として「婦人会」があります。日系社会でも女性による活動が活発化すると婦人会が組織されました。現在でも各国でこの「婦人会」の日本語名称がそのまま使われています。婦人会は従来の親組織を補完する存在として設立される事が多いなか、ペルーの婦人会の設立背景は少し異なりました。
戦後、ペルー政府から戦時中に没収された日本人の財産が返還されることになりました。そこで代表者としての日本人会再建が必要になりましたが、戦前の日本人会のイメージが悪く、在留邦人は再開に反対しました。そのため日本人会はあくまでも名目上のものとして、婦人会を最初に設立し、社会・慈善事業を担当することで解決が図られました。日本人会の付属組織というよりも、婦人会の創立によって日本人会再建への道を開いたのです。このような女性たちの活躍は展示室の婦人会のコーナーのほか、図書資料室の婦人会記念誌などで知ることができます。各地の女性たちの活躍は私たち女性ボランティアの活力源となり日々の活動につながっています。


「『御免の印章』を読んでみる」

2013年3月22日
ボランティア 松田 潤治郎




 当館には幕末のパスポート「御免の印章」(金蔵名義のもの)が展示されています(※)。
今日(2013年3月13日)、それに書かれている内容を、読んで欲しいと言われました。
実はもう8年も前になりますが、同じことを来館者から言われたことがあります。その時は、ビデオでも紹介されている「亀吉」名義のものを参考に、読むことを試みました。しかし、「日本政府の官印」となっている印刻の篆刻文字が読めず、あとで調べるつもりで、そのままになっていたのです。ちょうど今日、その篆刻文字を、ボランティア仲間の樋泉武さんが、解き明かしてくれたのです。「日本政府許航佗邦記」
以下、記載内容を読んでみます。

書面の者、英国商人ヱルレンス小使として、米国サンフランシスコまで、罷り越したき旨 願いにより、この証書を与え候、途中何れの国にても故障なく通行せしめ、危急の節は相当の保護有る候様、その国官吏へ頼み入り候
慶応三年三月十六日 日本外国事務局 (旅券番号)神奈川第九十号 (期限)一年 (所持人)生国武蔵、日本横浜、新次郎寄人  金蔵  年齢 30歳、身丈 常体、眼 大きい方、 鼻 常体、口 同断(同じである) 面 丸い方,痘痕(あばた)なし。

以上のとおりですが、本物は裏面が英文記載になっており、海外に出ればこの英文が実際に機能していたわけです。現在の展示に英文面と正式な訳文等を揃えれば、より分かり易い展示になると考えます。
私が参考にした「亀吉」名義のもの: 機関紙「海外移住」(昭和28年5月20日号)掲載、入江寅次の作品、草わけ移民の話「幕末の移民たち」
※当館に展示されているものは複製です。原本は外務省外交史料館に所蔵されています。


「ボランティアは、魔女?(その2)」

2013年3月15日
ボランティア 山田 保


 そろそろ古希を迎える年齢になって、子どもの頃の貧しかったけれど何を云っても許してくれた温かい地域社会が崩壊し、近代西洋文明にドップリと浸かり、人間が人間と交わることを恐れて孤独になってきました。ペットの犬だけを信じ?、長寿を疎ましく思う閉そく感の充満する世相を視野に入れつつ、改めてボランティア仲間の素晴らしい活躍ぶりを想っています。
特に、女性ボランティアの向学心には、例えば、昨年9月6日付けボランティア日記で紹介の「ハロウィンの仮装魔女」に止まらず、@大学院に進学しての東南アジアなどへの移住研究(例えば、からゆきさんの調査研究など)、A華僑や印僑との比較研究、B子どもたち対象のさらに適切な教材の製作、そしてC出稼ぎ日系人の諸問題調査など、目を見張るものがあります。
まさに、バイタリティーと教養に裏打ちされた女性ボランティアは、私に小さな勇気を与えてくれる「魔女」です。
女性ボランティアも、男性ボランティアも互いにモチベーションを高めながら、市民の皆様のご来訪をお待ちしています。


「カナリア色の侍」

2013年3月7日
ボランティア 平岩 教子


パンアメリカン大会に参加したブラジル選抜野球チーム
(1959年)

 「カナリア色の侍」サンパウロ新聞では、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)出場のブラジル野球代表をこう表現しています。代表の約半数が日系人、コーチ陣にも日系人が含まれています。
2月10日、NHKのBSスポーツドキュメンタリー「WBC日系人たちの挑戦〜初出場 ブラジルチーム」が放映されました。日系人選手の日本とブラジル、二つの祖国に揺れる思いを中心に、日系人とブラジル野球の関わりを描いています。
ブラジルへ渡った日本人の楽しみは野球。仕事の合間を縫って練習し、試合を応援する。ブラジル野球は日系社会を中心にして広まりました。非日系の子供たちも混じる野球チームでは「おねがいします」「ありがとうございました」の日本語が飛び交います。ブラジル野球は日本の野球技術だけでなく、魂も受け継ついでいるのです。
監督は昨年アメリカ野球殿堂入りした、名遊撃手バリー・ラーキン。そこにJICA日系社会青年ボランティアでブラジルの子供たちに野球を指導した黒木コーチ。佐藤コーチはブラジル野球界の功労者、親子そろっての出場です。連携プレーを中心にチームワークを重視した野球をめざしています。予選では強豪パナマを破っての本選出場です。主力は日本やアメリカを中心にプレーしている選手、チーム最年少は16歳の日系人投手です。
先日のWBC、日本対ブラジル戦をご覧になりましたでしょうか。ランキング20位のブラジルが3位の日本にあと一歩及びませんでした。日本戦にかける思いが伝わる、白熱した試合でした。


「海外移住婦人ホーム設立の動機 −小南ミヨ子の半生− 」

2013年2月28日
ボランティア 安田 幸雄


 2009年に行われた特別企画「海を渡った花嫁」展に女性のグループが来館されました。日本の母として知られ親しまれた小南ミヨ子が「花嫁教育」に取り組んだ情熱、その姿勢に深い関心を抱かれたようでした。その小南ミヨ子とは、会津若松の漆器屋「小沼」家の6人兄弟の三女として生まれました。会津女学校を経て、日本女子大学師範家政学部卒業、同大助手として勤務、医学博士を取得しています。
昭和11年小南 清氏(東京大学農学部教授)と結婚。昭和29年に小南氏に同行しパリの国際細菌学会へ出席します。その帰途「あんぜん丸」の船長より、南米へ移住した青年たちの花嫁探しの悩みを聞かされたのです。戦後移住が再開された翌年の昭和28年に、当時の神奈川県知事内山氏より、神奈川出身の花卉青年5名(アルゼンチン)の良き伴侶を探して欲しいと頼まれたのだが見つからないとの事。それを聞いた小南ミヨ子は場所、施設もない時代で、私財を投下するなどして、自宅(辻堂)の居間を開放し講習室に利用しました。宿舎の警備に必要な寝具類などを安く購入できる馬喰町まで研修生を連れて買物に出かけられた事もあったそうです。こうして昭和29年、何にもない所から「海外移住婦人ホーム」が設立されました。
講師には、主人である小南清氏に語学・海外事情、本人は家事全般、日大病院側には出産後の母子衛生と各人へ講義を依頼し日程表を作成、研修を実施しました。
昭和36年外務省法人格認可を取得、敷地は県所有地の払い下げと笹川財団からの寄付、助成金の支援協力をうけるなどして、名称:財団法人 国際女子研修センター(茅ヶ崎市)に発展しました。建物には「移住船」の窓を表現したものを組入れています。
研修日程は当初60日間を年に3回実施するところから始まり、全国で研修生を募集していました。修了生555人、うち渡航者は386人(北・南米各国)。またパラグアイ国イグアス日本語学校運営を支える教材、諸経費の一部を援助、支援などを図られました。ほかに、修了生の子弟(13-15歳)を対象に本邦日本語生徒研修(1か月)を実施し、第19回まで280数名の受入れに努められました。
因みに昭和55年勲5等宝冠賞、神奈川文化賞、吉川英治賞等受賞し、永年数々の功績を残すなどして、享年96歳の生涯を終えたのです。現在も日系本邦日本語研修教育機関として存在しています。


「日系アメリカ人の忍耐と誇りを身近に感じて」

2013年2月22日
ボランティア 塙 博


 昨年の11月25日(日)、すでにNHK「クローズアップ現代」で紹介されていた「尊厳の芸術展」が上野の東京藝術大学美術館で開催されていましたので観覧してきました。  
第二次世界大戦下、アメリカ合衆国政府は11万2千人余りの日系人を敵性外国人として、一世はもとより、アメリカ市民である二世、三世までも強制収容所(10ヶ所)に拘束しました。この展覧会は、廃材で加工したソロバン、机、椅子等の生活必需品、布切れ、紙、貝殻、木の端等で加工したブローチ、コサージュ等の装飾品、薪、廃材、石等で加工した仏壇、表札、硯等祖国の伝統を伝える生活用品等、与えられた最低限の生活環境を何とか豊かに過ごそうとする日系人らしい心意気が感じられる作品が多数展示されていました。
作品の中でも「山市兼一」さんの「木彫りの表札」に心が引かれました。収容された日系人は全員の持ち物と共に、名前代わりに「敵性外国人登録番号」がつけられ、管理するアメリカ人からは「モノ」としての扱いを受けました。日系人一世は特に自分の名前に誇りを持っていましたので、「山市兼一」さんは、割り当てられたバラックの自室の入口に自作の「木彫りの表札」を打ちつけ、ささやかな抵抗を表したそうです。プライドを傷つけられ、屈辱に耐えた日系人の忍耐と誇りを身近に感じることができ、深く胸を打たれた作品でした。
一方、当館にも困難な状況下で前向きに生き抜いた証がいくつか展示されています。一つ目は、日系人一世が強制収容所で作成した2個の「木彫りの小鳥」のブローチです。素晴らしい出来栄えで、道具や材料の不足するところで加工した作品とは思えません。二つ目は、「敵性外国人登録番号」を胸につけて強制収容所へ輸送される老人と2人の子供の写真です。老人の毅然とした態度は、日系人の不屈の気概を表すと共に、その場の臨場感が伝わる貴重な作品です。


「『関内』・『関外』のこと」

2013年2月14日
ボランティア 樋泉 武

 順路にそって120年間ほどの日本人の海外移住の歴史をたどってきた来館者は、後半は、別の切り口で「海外移住」を見直すことになります。横浜港は、神戸港と並んで、多くの移住者を送り出したところです。


 “移住の道のり ― どうやって行ったのか”のコーナーには、明治34年当時の横浜港周辺の絵地図があります。展示では、外航旅館(移民宿)に注目していますが、開港場・横浜全体の様子も興味深いものです。攘夷か開国かで国論が割れていた当初は、開国したとはいっても外国人にとってはまことに物騒な時代であったに違いありません。事実、攘夷派浪士によるイギリス公使襲撃事件などがありました。


 江戸時代初期の長崎の場合、外国人の居留地は扇形の出島でしたが、幕末に開港場となった横浜では、周囲を運河で囲まれた区域に、日本大通りを挟んで外国人商人と日本人が住み分けていました。 そして、運河に架けられた橋のたもとには、治安維持のため見張所が置かれていたようです。
現在、JR関内駅近くの吉田橋関門跡には、記念碑と説明板があって、関内(かんない)、関外という呼び名の由来を納得することになります。関門は明治4年には廃止された、と説明板には記されています。世相も安定してきたのでしょう。
その後、明治32年に内地雑居が許されることになりましたから、外国人の住居や商館が特定の場所に限定されなくなります。そして、明治34年発行の“絵地図”にも、関門は記載されていません。


「海外移住資料館への誘い」

2013年2月8日
ボランティア 長P 威


 弊館では明治から現代に至る日本人の海外移住の歴史や移住者及びその子孫が、異文化社会の中で逞しく凛として生き抜き、そして相手国の人々から信頼されるステータスを築き上げて来た生き方を、数多くの標本や写真、資料等を通してご紹介しています。それらは、淡々と展示されていますので、お一人でご観覧になっても、テーマによっては、深く感じ入ることが少ないかもしれません。つまり、これら資料等の裏側には、記述し難いことや興味に満ちた史実、ドラマが多々内蔵されているからです。
以下詳細は省きますが、例えば、第1回ブラジル移民を運んだ「笠戸丸」の写真説明では、「神戸港を出港する笠戸丸」とあるだけで、笠戸丸の船歴や数奇な運命を辿ったこと等は表には出てこないのです。実は、同船はイギリス・ニューカッスルにある造船所で生まれ、程なくロシア海軍の船籍となり、我が国が国運を賭けた日露戦争の海戦と関係があるのです。2説あり、旅順港攻略作戦説と日本海海戦説・・?とがあるのですが−、どんな史実があるのでしょう?
もう一つ、ブラジルの胡椒の標本が展示されています。胡椒は元々インド原産の作物で、昔シルクロードや海洋を通ってヨーロッパへ流通したことはご存知のとおりです。それが何故、今日アマゾン流域で栽培され、ブラジルの主要農産物の1つとなっているのでしょうか?それは、戦前、或る日本人の農業技師が、アジアから移植したものが、日本人移住者の研究と栽培努力により根付き繁茂したからです。その農業技師とは?その方は、私が二十代中頃(昭和35-36年)のこと、時々事務所に上司を訪ねて来られた貴公子、いや、既に貴公爺?の方でした。お嬢様は戦後の美人女優のお一人でした--等々。
この様に、ガイド役を務めるボランティアが、それぞれの標本や資料等の中味を読み解いてくれます。是非一度ご来館頂き、数々の「人間臭いドラマ」をお楽しみください。ご来館をお待ちしています。


「ズッコケ三人組 ハワイに行く!」

2013年2月1日
ボランティア 大木 彌智子


 海外移住資料館では日本人の海外移住の歴史をT期からX期にかけて紹介しています。来館者の年齢層の中でも特に子供たちに時代の流れに沿って、たとえばU期のハワイ官約移民のことをどのように伝えていってよいか、始めのころとまどいを感じておりました。
ある日、先輩から一冊の本を紹介していただきました。
【ズッコケ三人組 ハワイに行く 児童文学者 那須正幹著】
早速読みだしてみますと、本の中では実際にハワイに移住したご両親のことを、おじいさんは孫のような年令の子どもに具体的な例を用いて分かりやすく話しているという設定が、展示解説をする上でのヒントになりました。以来雪がとけて春がめぐってきたかのようで、この本の事を来館者に話すと「読んだことあります!」「おもしろかった!」「そういえば思い出しました、弟の本借りて読んだわ」という反応もあって、小さなお客様の来館が待ち遠しくなりました。
そうして今私が子どもたちをご案内する際に必ずお話しするエピソードがあります。それは今、ハワイアンレストランでも定番のメニューとなっている「ミックスプレート」の誕生についてのお話です。
広島県、山口県、熊本県、福岡県などからたくさんの方々がさとうきび畑での辛い仕事に取り組んでいる時、スカンディナビア人やポルトガル人たちも同じさとうきび畑で働いていました。苦しい作業の中の30分の昼食時におもしろい発見をしたそうです。他の国から来た方は何か手でつまんで見慣れないものを口にしている所を見て、言葉も分からないままお弁当のフタにおむすびや玉子焼きをのせて近づいて、そのかわりにパンやお肉焼きなどを頂いて交換し、楽しみをみつけて明日につないでいったそうです。そうして生まれたのが各国のメニューが一つのお皿に乗っているミックスプレートでした。
ハワイはもちろん、あちこちで新しい世界のパイオニアになられた日系人。ご案内していると、「日本人って頭がいいと思われてたんじゃないの」という男の子の言葉で大笑いしました。


「移民船 あるぜんちな丸」

2013年1月25日
ボランティア 新保 猛


 移住資料館では、「あるぜんちな丸」「ぶらじる丸」のプラモデルが 販売されており、その完成模型がショーケースに飾られている。本船は1930年代、日本の客船の黄金時代と呼ばれた輝かしい時期に建造された優秀船。南米航路、世界一周航路用に誕生した貨客船で、当時資材輸入困難の為、全て国産材を使用し最高水準の造船技術で建造された。サントス港迄36日間の記録を持つ。世界一周航路の船としてプールも備えられたが、日本人乗船客の馴染が薄く他へ転用した。外国船なら当り前の設備。この辺り外国人乗船客と船旅の認識が分かれる。
往航=南米移民、復航=綿花・穀物輸送。太平洋戦争中海軍に徴用。特設航空母艦「海鷹(かいよう)」に改造。戦後1948(昭和23)年解体。

●建造 1939(昭和14)年 長さ=166M 巾=21M 高さ=12.6M 総トン数 12,755T
●出力 18,280馬力 21.5ノット
●1等=101名 特3等=138名 3等=662名 (計901名) 
*出典 商船三井船隊史 1884-2009

※当時の南米航路には、
大阪商船 りおでじゃねいろ丸 9,627t (1929年)
大阪商船 ぶらじる丸 12,752t (1939年)
日本郵船 平洋丸 9,816t (1930年) 等が就航した。


「ジャポネス・ガランチード」

2013年1月18日
ボランティア 鏑木 功


 資料館の一番奥まった場所には、移住者達が「どのような職業・仕事についたのか」という展示コーナーがある。パネルには「ブラジルにはジャポネス・ガランチードという言葉がある」と書かれている。
私が昭和43年にブラジルでの仕事を命ぜられ、家族と共にサンパウロ市から300キロ程離れた地方都市の郊外で生活するに必要な家具などの調度品を購入するに際し、上記の言葉の恩恵にあずかったことがある。海外への外貨持出しが厳しかったところから、所持金が大幅に不足し、購入物品の選択をしていた私共の様子を感じとった店主が、初めての客である私に、「必要なものはお持ち帰り下さい。不足分は払えるようになってからで良いですよ」と。それ程までに日本人は信頼されていることを実感したものである。
更に、当時サンパウロ州知事であったソドレー氏は、州内で計画の進められていた世界最大の規模とされるウルプンガ発電建設に関し、「60万の日系人の信頼の上で、日本企業の参画を認めたい*」と述べたという。この言葉には非常な重みを感じたものである。
*わが国民の海外発展(移住百年の歩み−本編)14頁 外務省発行


「故国日本をしのぶ巡回シネマ」

2013年1月11日
ボランティア 大橋 輝美


 1930年代以降のブラジル。開拓移住地最大の楽しみは日本映画の巡回シネマでした。大きく重い映写機、フィルムや仮設スクリーンなど機材一式を積んだトラックで屈強の若者がチームを組んで移住地を回り上映会を開催しました。移住者たちは近隣誘いあって上映会場へ集まったそうです。
若い時に日系団体の役員として「巡回シネマ屋」をしていたという方から直接話を聞く機会がありました。上野アントニオ義雄さんはパラナ州カンバラ出身で後にブラジル連邦下院議員を長く務めた方。岡村良雄さんは7歳の時に渡伯、パラナ州クリチーバで「機械製作会社」を設立、クリチーバの円筒型バス停留所(ツーボ)を製作したことで著名な方。お二人とも日本政府より勲章を授与されました。
海外移住資料館の「移住者のきずな」の展示の一つが「巡回シネマに使用した映写機と映像フィルム」です。クリチーバ日伯文化援護協会から提供された機材ですが上野さん、岡村さんもこれを使われたことでしょう。なりわい万華鏡の写真展示の中にも「巡回シネマ屋」や常設映画館の写真があります。お見逃しなく。
「巡回シネマ屋」に代わって、日本国総領事館主催の「日本映画週間」が毎年開催され、今でも多くの日系人が日本映画を楽しんでいます。
上野さんは2011年(88歳)、岡村さんは2012年(82歳)、鬼籍に入られました。


「ある活動日」

2012年12月20日
ボランティア 池谷 千恵子


 今日もまた来館者の方々は、それぞれの目的を持って海外移住資料館を訪れて下さいました。
四国より来られた2人連れの女性は、デザイン関係の仕事をされているとの事。「移住の7つ道具」コーナーの柳行李・古い皮製スーツケースや「移住者の家庭生活」コーナーの古い食器棚等を熱心に見ておられました。資料館の展示品はアンティーク品として大いに参考になるようでした。
静岡より来られた男性は、戦後9歳の時家族7人でブラジルへ渡りました。2人の姉妹は今もブラジルにおられ、甥子さん達は医師として活躍されているとの事。館内見学の後、図書館で当時の乗船名簿をコピーし、目を潤ませながら大切そうに持って帰られました。
息子さんが海外駐在となり、俄かに海外移住に関心を持ち始めたと訪ねて来られた男性。どの展示品も熱心に見て下さり、次回は一時帰国される息子さんとご一緒に来館したいと言葉を残して行かれました。
短い時間とはいえ、来館者の方々とお話しさせていただくひと時は、展示ガイドとして至福の時です。来館者の望まれるものをその都度提供できる資料館でありたいと、切に願います。


「最後の移民船にっぽん丸」

2012年12月14日
ボランティア 伊藤 宏


 海外移住資料館には、興味を引くところが何ヶ所かありますが、最近来館した横浜市内の高校生等をガイドしていると、最後の移民船のコーナーに来ると、移住者の貸切専用船で行くほど多数の移住者が日本から行ったのですかと時々質問されます。
日本から移住者が一番多かったのは、1963年頃に1年間に約8千名程南米に移住しました。このころが戦後の南米移住の最盛期でした。
日本からの移住者は、大半が移民船「あるぜんちな丸」「ぶらじる丸」等で南米に移住しましたが、移住者の専用船ではありません。大阪商船の貨客船で毎月横浜港・神戸港からの定期航路で、定員は約800名くらいです。移住者は多い時で200名〜300名位で、一般のお客さんの方が多く乗船していました。
ブラジル国のサントス港及びアルゼンチン国のブエノスアイレス港まで約40日から45日かかりました。それだけ日本を遠く感じて、一生日本に帰れないのではないかとの思いで移住したのです。


「綿花と山本喜誉司」

2012年12月6日
ボランティア 相磯 榮一


 「やわらかい」「ふわふわしている」「気持ちいい」という声が聞こえる「綿花栽培」コーナーがあります。その他は「コーヒー栽培」「コショウ栽培」「野菜栽培」についての展示・解説をしています。このコーナーは、ブラジルの農業を紹介している展示場です。
綿花栽培のパネルには「1929年世界恐慌でコーヒーの不況により綿花栽培に転換する日本人移民が増加する」と示されています。この綿花栽培に力を入れた人が、山本喜誉司なのです。彼は、中国で綿花栽培の改良開発に従事していました。その後ブラジルに渡り、綿実を北米から輸入しブラジルにあった綿花の改良および栽培に努めたのです。今では、ブラジルは、世界屈指の生産国になっています。  
そしてこの山本喜誉司は、有名な小説家の芥川龍之介と東京府立三中時代からの大親友だったということです。
このように移住地で活躍した人々の、足跡を探しに当資料館に来てみてはいかがでしょうか。


「サンパウロ市日系2世ご夫妻の来館について」

2012年11月29日
ボランティア 河村 憲一


 現在日本で約30万人の日系人が働いているそうですが、先日約23年前、丁度日本がバブル時代にブラジル国サンパウロ市より就労のために来日された日系2世ご夫妻が来館されました。ご夫妻にお話を伺うと、偶然にも奥様が来日前に約10年近く私が働いていたサンパウロ市内のブラジル国金融会社で社長秘書をされていた方だったので驚かされたと共に、30数年前のブラジル国勤務時代の記憶が身近に蘇って来ました。
現在日本とブラジルの直行便を運航する航空会社はなく同国へのフライトには不便を感じている人が多いと思いますが、天然資源に乏しく食料自給率の低い我が国としては約150万余りの日系人があらゆる方面で活躍している大国でもあり、お互いに地球の反対側で遠距離ですが、可能な限り社会的に近い国に位置付ける政治的努力をして欲しいものです。来月サンパウロ市コリンチャンスチームが南米サッカークラブ覇者としてトヨタFIFAクラブカップ杯に約2万人余りの応援団を連れて来日を予定しているそうです。運よく新横浜スタジアムでの対戦となればサッカーファンだけでなく、多くの日系ブラジル人に比較的近くの海外移住資料館を訪れて欲しいものです。


「移民の七つ道具−なつかしい医薬品−」

2012年11月21日
ボランティア 安田 幸雄


 移民の携行荷物に生活の必需品にかかせない「医薬品」がトランクの中へ詰められていました。来館者の老夫婦からよく聞かれる話、昔、子どもの頃「越中富山の薬箱」の中にある景品の紙風船が人気で、毎日遊んでいた頃が懐かしく想い浮かぶと・・。
「おきぐすり」の配置員を売薬さんと呼んでいた時代、彼らは柳行李の中に薬を詰め全国津々浦々を回って商いをしていました。各家庭を訪問する時に必要な顧客名簿を持っていましたが、これを懇場帳(得意帳)と云って代々大切に受け継いでいました。「人の信用」は最も重視されました。顧客の悩み相談に乗って適切なアドバイスを行ったり、励ましたりすることで信頼関係が作られていました。懇場帳には得意先の住所、氏名、配置した「くすり」の銘柄、数量、前回までの使用料、訪問日などが詳しく書かれています。これは各家庭の健康管理を行う総合データベースの役割を果たしていました。
そうして内用薬には「丸剤」「錠剤」「カプセル」のほか、溶ける吸収され易い「粉薬」なめることで口やノドの粘膜に効く「トローチ」、甘くて飲み易い「水薬」などがあり、風邪・腹痛・頭痛などの症状に合わせて調合されていました。外用薬には「目薬」「点鼻薬」「消毒薬」「うがい薬」「はり薬」などの他、肛門から挿入して腸の粘膜や毛細血管に吸収させる「座薬」或いは傷口に直接貼る「絆創剤」などがありました。売薬さんは、懇場帳のニュースを正確に察知し、数々の薬を各家庭に届けました。その多くは医師の処方箋を必要としない手軽な一般薬として深く生活の中へと浸透していったのです。
当館にはこうした明治以来の図表や標本、写真、物品なども多く、個々に古く長い歴史を持っています。そうした資料に尊重を感じ、再度友人、仲間たちを誘いたいと語る声を歓迎しています。


「思い出探し」

2012年11月15日
ボランティア 諸橋 茂喜


 先日、展示資料を熱心に見ているご夫婦がおりました。声をかけると、ご主人が、父親の事跡の手掛かりを探しに来たのだと言います。父親は戦前に移民としてカナダへ渡航し、その後、米国のサンフランシスコに転住、ニューヨークに移動して雑貨商を営み繁盛していたそうです。このご主人はニューヨーク生まれで、日米開戦で日本に帰国して生活するようになったが、父親のカナダとサンフランシスコでの生活は何も聞いておらず、その頃の父親の様子を知る手掛かりが欲しいと言います。結局、ここでも手掛りは無かったのですが、この時代北米に渡航した日本移民は、この方の父親のように、高賃金を求めて移動する人が多かったと言われています。


「R.W.アーウィン氏末裔寄贈の勲章について」

2012年11月9日
ボランティア 半澤 満


ロバート・ウォーカー・アーウィン(中央)
と息子たち

 去る7月26日に資料館特別展示室に於てアーウィン氏末裔のユキコ・アーウィンさんから当館に勲章が寄贈された。之等の勲章はアーウィン氏が1866年に来日して以来1925年日本に骨を埋める迄、日本人のハワイ官約移民送出に貢献したことを始め、他の功績に対して日本政府及びハワイ王国より授与された数々の勲章のうちの幾つかである。
当日私は活動日だったので幸運にも参加することができた。実物を目前に見るとその立派さが心に伝わってきたことを覚えている。この勲章が常設されたと聞き大変嬉しく思った次第である。彼がこれまでに日本政府より授与された勲章は年代順に記述すると、 明治15年 勲四等旭日小綬章、明治18年 勲三等旭日綬章、明治19年 勲二等旭日重光章、明治25年 勲一等瑞宝章、大正14年 勲一等旭日大綬章、等である。(出典:「ハワイ官約移民の父R.W.アーウィン」松永秀夫著 講談社ビジネスパートナーズ)


「触れる資料館」

2012年11月2日
ボランティア 松下 里織

 資料館へ来館する小さなお子さんを連れたお母さんたちに、サトウキビ・プランテーションのサトウキビ展示やアリアンサ移住地の切り株展示など、興味のあるものはぜひ触ってみてくださいと声をかけると、決まって「えーっ!触っていいんですか!?どこに行っても展示物には触らないでと怒られてばかりだったんです」と言われます。海外移住資料館に展示されている資料のほとんどが、実際に触れることができます。触るだけでなく、パソコンを使った移住クイズに挑戦したり、移民カルタで遊んだり様々な展示体験をすることができます。資料館の扱う内容は小さな子どもには少し難しいと思われる内容かもしれませんが、展示に直接触れることで、まずは日本以外の国(海外)に、そしてそこから少しずつ日本人の海外移住に興味を持ってもらえれば、ボランティアとして嬉しく思います。


「ボランティアガイド やり甲斐と反省」

2012年10月25日
ボランティア 堀口 進一

 早いもので当資料館が開館10年を迎え、私のボランティアガイドも8年目となる。
まず、来館者に解説案内を求められると、私の場合も見学予定時間を尋ね、その時間に合わせて案内しようと心掛けるのだが、往々にして何ヶ所かで説明が長くなってしまい、予定の時間をオーバーしてしまうことが少なくない。
これは展示品の中に、長年移住事業に携った私にとって、自分自身の実体験とダブるようなものがいくつもあって、どうもそのあたりの説明になると、ついつい熱が入って話が長くなってしまうためである。またこのような場合には、話を聞く側も興味をかきたてられたような反応を示すので、益々トーンが上ってしまうことになる。
ボランティアガイドをしていて、こうしたときこそが、やり甲斐、そして楽しさを一番強く感ずるのであるが、反面、我々は話を面白くして客を喜ばせる講釈師ではないのだと反省することもある。しかし、どうも未だに改まっていないところがあるようで、今後も自らを省みながら来館者の要望に応えられるようなガイドを目指していきたいと思う。


「ここにも日本の心」

2012年10月18日
ボランティア 平岩 教子

 中学生に相当する日系人子弟の研修(*)が、JICA横浜で行われています。今回は南米からの子どもたち、移住学習の一環として資料館を見学、その案内をしました。その後も、何度か話をする機会がありました。
子どもたちは研修中、3階のレストランで食事をします。日本の習慣を学ぶため、全員お箸で食べます。あまり上手に使えない子がいる中、ハッとするくらい上手な子がいました。礼儀正しく、きれいな字を書きます。話を聞いてみると書道を習っているのだそうです。
今回の研修でやり残したこと「みんなで雪合戦をしたかった」というものがありました。研修に来たのは今年の1月、南半球の季節は夏。残念ながら、横浜ではまとまった雪が降らず実現できなかったのです。ちょっと昭和のにおいがする、とても素朴な子どもたちでした。

*日系社会次世代育成研修・・・中南米などの日系社会における日系人子弟(中学生相当:12〜16歳)を対象にして、日本人の海外移住の歴史、日本の文化・習慣、そして現在の日本について学び、日本に対する理解を深めることで、自らの日系人としてのアイデンティティを強化するための研修です。


「展示資料情報の提供者たち」

2012年10月12日
ボランティア 松田 潤治郎

 開館10周年を迎えた海外移住資料館では、現在この10年の活動を振り返った企画展が催されています。常設展示写真で「家族のきずな」のワイドな写真は、ちょうど10年前にハワイのマウイ島で撮影されたのです。1891年に山口県佐波郡からハワイに移住された、カヤ・シンキチさんのルーツにあたる人たちと、その配偶者の皆さん総勢58人。椅子列の二人のこどもさんは六世。右端のおじいさんが三世のヤツシロ・セイイチさん。撮影当時91歳だったそうですから、もう102歳になられています。来館者から必ずと言っていいほど「ご健在ですか」とたずねられます。訃報をうかがっていませんから、たぶんお元気でしょうと答えています。
館内の展示で証言映像や移住時の携行荷物など、資料提供していただいた移住者のなかに、この10年の間にお亡くなりになられた方々がおられます。川瀬不二代さん(ブラジル・クリチーバ)、五十嵐みよしさん(ブラジル・ベレーン)、赤間みちへさん(ブラジル・サンパウロ)、橋本梧郎さん(ブラジル・サンパウロ)、公文包冶さん(パラグアイ・イグアスー)、安井宇宙さん(ブラジル・ベレーン)、沼田信一さん(ブラジル・ロンドリーナ)。貴重な証言や携行荷物、作品など、展示資料や情報提供に感謝しながら、皆様のご冥福をお祈り申し上げます。


「日本人農業移住者の業績を偲んで」

2012年10月5日
ボランティア 塙 博

 「JICA横浜 海外移住資料館」の正面玄関に入って最初に目につく展示は、今から90年前の1920年に、北米ポートランド市のバラ祭りに参加した日本人農業移住者の「野菜山車」の複製です。この「野菜山車」は、当時の日本人農業移住者が栽培していた17種類の野菜・果物・花卉等を装飾し製作したもので、移住先の国における 日本人農業移住者の参加と貢献を象徴する展示となっています。
これらの野菜・果物・花卉は、殆どが日本でも馴染みの品ばかりですが、知る人ぞ知る、珍しい野菜が一種類入っています。それは「フキ」と見間違う形態の植物で「ルバーブ(添付写真)」といいます。この野菜は原産地がシベリア南部等の寒冷地で、大昔から食用として栽培され、ヨーロッパやアメリカではジャムやパイ、サラダ等に利用されています。
「ルバーブ」は大変酸味が強く、戦中に疎開先で食した「イタドリ」に似た味で、ジャムに加工するとマイルドで爽やかな味を楽しむことができます。また食物繊維やカリウムが多く含まれており生活習慣病の予防にも効果があると考えられています。
「ルバーブ」は一昨年の夏期に長野県のスーパーの店頭で偶然に見つけジャムに加工しました(1束1キロ¥380/2012・8現在)。このジャム作りは、素手で築き上げた日本人農業移住者の歴史的事実を認識し理解すると共に、その業績を偲んで、我が家の夏期の年中行事となっています。


「来館者の知的好奇心に脱帽」

2012年9月27日
ボランティア 長瀬 威

 先月、女性はピアニスト、男性は中国将棋の達人という二十代後半のカップルが来館されました。私がお二人に関心を持ったのはご両人が入り口で手にされた資料の中に「日系人数」という言葉を発見され、何かを議論されていたからです。お邪魔かなと思ったのですが仲間に入り、この便利にして、しかし統計上非科学的数字であると申し上げました。私が学生時代、華僑は東南アジアに数千万人住むと聞き驚き入ると同時に、中国人の海外発展力の逞しさを感じたことを思い出したこと、そして捕らえどころのない数字だが有ると便利であることを述べると、全く同感とのことでお互い胸襟を開くことができました。
ここから次々と知的質問と議論のツアーが始まったのです。次々と巡って胡椒の標本のところでは、なぜブラジルにあるのか?元々インド原産ではないのか。シルクロードを通ってヨーロッパに行った筈だとか、日本人があの赤道直下の灼熱の緑の地獄と言われたアマゾン流域に定住した理由や歴史如何、何故白人が住まない熱帯園に適応し、日本人独自の文化圏を築くことが出来たのか等の質問がありました。日本人の豊かな適応性からアグロフォレストリーまで編みだし、大原始林と調和・共存する術を身につけたことをお話しました。久しぶりに感性豊かな方々にお会いでき、スリリングで楽しい2時間でした。


「パラグアイ4年2か月の雑感」

2012年9月20日
ボランティア 筒井 信弘

 私がJICA在職中の1987年、パラグアイでの協力隊駐在員業務が始まりました。
ある程度パラグアイの状況や協力隊のことは理解、把握し赴任しました。しかし、協力隊員と接する仕事の難しさ、2年間預かり無事に親元へ帰さなければならない責務、任地での活動をどのように補助していくかなど苦悩が続きました。
若い協力隊員の人格と自主性を尊重、信頼し、日本人会の催しには活動に支障のない限り参加、日本人社会の要望に応えた結果、色々な面で協力を戴けるようになりました。
在任中には、100名以上の協力隊員が活動していた時期もありましたが、お陰で不慮の事故も起こらず無事任期を全うすることが出来ました。これも協力隊員の個々の努力はもちろん、配属先その他周りのたくさんの方々に助けられ業務が出来たことに感謝する次第です。
昨年11月22日〜23日、コロネル・オビエド地区に派遣されていた隊員有志が発起人となり「オビエド会」が熱海で行なわれ、30名にも及ぶ協力隊員OBと家族の集まりに私たち夫婦も招待されました。20年前の青年達が往時を偲び夜を徹して語り、懐かしい一時を過ごす事が出来た感激は生涯忘れることが出来ない思い出となりました。


「「勝ち組・負け組抗争」とラジオ 」

2012年9月13日
ボランティア 樋泉 武

 ヴィセンテ・アモリン監督による、映画『汚れた心』が公開されました。これは、太平洋戦争終結後のブラジル日系人社会における、「勝ち組・負け組抗争」を主題としたものです。日本から移住し、戦争により正しい情報の途絶したブラジルの日系人社会における悲劇で、和解するのに20年以上を要したとされる深刻な抗争でした。

資料館の「移民の七つ道具」のコーナーには、5球スーパーラジオが、展示されています。 これは、昭和30年頃中・高校時代を過ごした筆者も組立てたことがある懐かしいラジオです。これは中波のみの受信機ですが、もうちょっと増強すると、短波も受信できるスグレモノです。
このラジオが、あと20年はやく普及し、ブラジルにも渡っていたら事態は違っていたでしょう。ブラジル国内の放送はもちろん、地球の反対側・日本からの短波放送も聴けたかもしれません。客観的な情報の前には、戦前の臣民教育も、健全な判断に席を譲っていたろうにと残念な思いです。


「ボランティアは、魔女?」

2012年9月6日
ボランティア 山田 保

 JICA横浜 海外移住資料館は、今年で10周年を迎えましたが、その間、市民への地道な広報活動などによって、年間3万人程度の来訪が定着しようとしています。
特に、日本の将来を担う「若いお父さんやお母さんと子どもたち」にターゲットを絞った新企画、例えば、地域の自治体や諸団体との連携による「ハロウィン 特別イベント」などが開催され、多くの新規来訪者を迎えることができました。
そこで、登場したのが「ボランティアが仮装した魔女」でした。黒い瞳を輝かせる、サプライズの子どもたちを夢の世界へと誘う楽しくも充実した一時でした。
これらの新規企画に参加することで、市民との出会いを大切にするボランティアのモチベーションは、ますます高まっています。今年も10月28日(日)にハロウィンラリーが開催されます。皆様のご来訪を心からお待ちしています。


「− 県博特別展 ペリーの顔・貌・カオ展を見て −」

2012年8月31日
ボランティア 新保 猛

 1853、54年の2度。ペリー来航で鎖国日本の扉が開き、日本人の海外移住の歴史の幕開きに。開国当時の混乱ぶりは多くの記録が残る。著名外国人ペリーの今日迄伝承された虚実入り混じる肖像画等の絵や記録をまとめた特別展を見た。
絵の陰には多くの有名無名の絵師が関わっていた。本のさし絵、写真等で見覚えのある絵にも再会。黒船に至っては空想力と想像力のよい見本。元絵は長崎土産。オランダ船が伝聞に一役買っていた由。当時、人々の好奇心は旺盛で、異船見物無用にもかかわらず多くの人々が出かけている。又、異国船見物の船を仕立てた様子等も記録に残る。この旺盛な好奇心が、後年海外移住の歴史の中へ受け継がれた事を改めて感じた。
日本人海外移住の歴史は維新政府誕生の2年前。1866年に御免の印章下附の触れ書が出た。


「− ボランティア通信 −」

2012年8月23日
ボランティア 鏑木 功

 六月の末、北米大陸の有名大学18校が合同で横浜市内に設置する「アメリカ・カナダ大学連合日本研究センター」に学ぶ6名の学生が、日本語によるガイドを条件で来館。
文化人類学、日本文学、日本研究などの専門家を目指し日本語修得中のアメリカ、カナダ、シンガポール、韓国の学生達で質問を交えながらの熱心な見学姿勢に感心させられた。
その中の一人で日系アメリカ人とは一見して思えない青年は、曾祖父が佐賀県、曾祖母は三重県生れの4世とのことで、二人がアメリカに渡った頃の近代日本史上での庶民の社会経済生活事情についての質問、更には北米における排日の歴史についての日本側の文献の存在などについても問われた。後者の求めについては、図書資料室を案内、当館の学術委員会委員長を勤めておられる津田塾大学長飯野正子著「もう一つの日米関係史」ほかを紹介した。


「「海外移住資料館」のオアシス」

2012年8月16日
ボランティア 大橋 輝美

 『海外移住の歴史』をハワイから北米、そして中南米への大きな流れを学んだあと、続いて『われら新世界へ参加す』へ進むと、やがて大きな空間が広がっています。ここで一息、腰をおろして周りをご覧ください。
 大きな三面スクリーンには移住先の「新世界の風景」が広がります。「大地に挑む」、展示されている農機具は赤茶けていますが、当時の移住者の苦労はさぞや。クリーニング店、レストラン、薬局などの日本語の看板はいろいろな商売に取り組んだ様子を静かに語りかけてきます。台所のガス・オーブンと料理の数々、炊き出し用の大釜や石臼など、日系社会の生活ぶりが目に浮かびませんか。
 海外移住資料館の「オアシス」で移住者の生活をしのぶひとときをぜひお楽しみください。
 ここは来館者の皆さまとの語らい、学生グループの話し合い、子どもたちが集まると「移民カルタ」や「紙芝居」を楽しむ多目的スペースでもあります。


「御免の印章」

2012年8月9日
ボランティア 大木 彌智子

 ある日、小学校一年生の男の子がお母さんと来館され、私が展示場内をご案内致しました。歴史のコーナーに入り、「よその国に出かけるときには、今はパスポートを持っていきますけれど、昔はその人の顔の特徴を見て、目が大きい、鼻が高い、口にはひげがある・・と書いた紙をもっていったのですって。これをごめんの・・」と言いかけた時、「ぼく、知ってるよ。“ごめんのいんしょう”っていうの。」「どうして知ってるの?」「だってね、ぼくのお父さん学校の先生だもん!」その得意そうな笑顔で、お母さんのそばで誇らしげでした。


「盆踊り」

2012年8月2日
ボランティア 伊藤 宏

 昨年11月頃あるぜんちん国から、日本人移住者の老夫婦一世が来館されましたので、私が当資料館を案内し、あるぜんちん国の日系人の現状(様子)などについて話が弾みました。その老夫婦が当館の常設展示内にあるフェスティバルコーナーのワイン樽の太鼓を見て、ブエノスアイレス市近郊の町では毎年盆踊りを開催しており、これから「チョウチン」100個!を持って帰るという話をしてくださいました。地球の反対側で日本の文化である盆踊りが、あるぜんちん人も交えて行われていることに感動しました。


「医学生2人」

2012年7月27日
ボランティア 池谷 千恵子

 JICA横浜海外移住資料館には、いろいろな方が訪れます。歴史に興味があり、近代史の一部である移住史を知りたい方、またこれから旅行する国の日系人の様子を知りたい方等、目的は様々です。
 先日、横浜市立大学の医学生2人が来館しました。大学のプログラムである「ブラジル日系永住者巡回診療・健診実習」に参加し、南ブラジル(リオグランデドスール州・サンタカタリーナ州)に2週間程滞在する為、先ずは、その下準備として、ブラジル日系人の歴史を勉強したいというのが目的でした。
 過去100年間には約26万人もの日本人がブラジルへ移住しました。一世の方々は働くのに忙しく、現地語のポルトガル語をゆっくり勉強する暇もなかったに違いありません。高齢化が進む日系人にとって、日本語で病状を話すことの出来る機会は何と心落ち着くことでしょう。
 この2人の医学生が、海外の地域医療を体験し国際感覚を身に付けて、将来医学界で活躍することに、心から声援を送ります。
 国際交流が求められるこの頃です。先駆者である移住者の歴史を学ぶべく、当資料館に多くの方々が訪れるよう願っています。


「− 資料館の活用 −」

2012年7月19日
ボランティア 相磯 榮一

 JICA横浜 海外移住資料館は、北米・中南米の移住の歴史と生活について展示、解説しています。展示品は身近に感じてもらうために展示ケースを出来るだけ外しています。
先日、全盲の方が来館され解説をたのまれました。展示に触れながら説明をし“移民船コーナー”まできた時です。ドラム缶に触れ、動かなくなりました。しばらくして「私、これでお風呂に入りました」と、昔を懐かしんでの一言がありました。
この方は、私にとって来館者の一人です。でも退出される時「資料館に来て昔と出会うことができ、うれしく新しい発見をしました」とおっしゃって館を後にされました。心に残る一言です。
直接観察することで、歴史を感じる場として資料館を活用し、政治と社会の動きを考えてはいかがでしょうか。


 
 
 
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