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ボランティア活動

「ボランティア日記」

当館の展示案内ボランティアが活動中に感じたこと、展示のこと、日常生活で感じたことなどを思いのままに綴ったリレーメッセージです。

ご自身で自由に見学して頂くのももちろん大歓迎ですが、展示のほんの一部でもボランティアに解説してもらいませんか? きっとさらに理解が深まる事と思いますので、このメッセージを通じて少しでもボランティアメンバーを身近に感じていただきたいと思います。

パラグアイ移住80周年:「新たな日系社会の創造」の息吹

2017年1月13日
資料整理ボランティア 広内俊夫


 南米パラグアイの日系社会は今、ドラスティックな変化が起きています。
 2016年はパラグアイ移住80周年、その移住80周年祭典のハイライト「日本祭り」が10月15日、アスンシオンの競馬場を借り切り盛大に行われました。この「日本祭り」は「日本人を受け入れてくれたパラグアイよ、ありがとう!」と感謝の意を込めた、パラグアイ国民に向けた一大イベントです。日系諸団体を中心に大使館・JICAが一堂に会し、企業がスポンサーとなり、多くの日系二世・三世のボランティアによって企画・運営されました。
 ステージの両脇に設置された巨大なテレビスクリーンに演技や会場風景がリアルタイムに映し出され、ドローン2機による特撮など最新機材が投入され、会場は熱気に包まれました。参加者は2万人、その大部分はパラグアイ人で、その規模に「パラグアイ国を巻き込んだ日系初の巨大イベントだ」と日系担当者は興奮気味に語っていたのが印象的でした。
 驚いたことは、日本文化のアニメやコスプレがこの南米パラグアイにも登場したことです。さながら原宿・秋葉原のようです。移住70周年祭典の時にはこのような現象は見られませんでした。パラグアイ日系社会は南米でも歴史が浅く、「古き良き時代の日本」が温存されていますが、その一方で、日本のポップカルチャーがこのパラグアイにも押し寄せ、日系二世・三世、そしてパラグアイの若者の心を捉えています。この10年、パラグアイ日系社会は日本の新しい文化を取り入れながらも、そのまなざしは祖国日本からパラグアイ国へと向かっているようです。移住70年から80年へ、「新たな日系社会の創造」の息吹を感じます。
 日本の伝統文化といえば、書道、茶道、折り紙、和太鼓、盆踊り、和食などですが、近年、マンガ、アニメ、コスプレなど「ポップカルチャー」と呼ばれる新しい日本文化に注目が集まっています。ポップカルチャーは海外で特に有名になり、ここ10年余で世界を席巻するようになりました。
 150年程前、浮世絵が海外で評価されてジャポニズムブームが起こると、日本人は初めてその価値に気づいたように、近年のポップカルチャーも海外を通して初めてその価値を知ったのです。日本政府は日本文化を世界に発信しています…在外公館「アニメ文化大使」2008年、外務省「カワイイ大使」2009年、農水省「和食の世界文化遺産」2013年など。これらは海外の日本文化ブームが後押ししてくれたということかもしれません。

 

 

半田知雄展で思うこと

2015年6月8日
ボランティア 松田潤治郎


 JICAサンパウロ事務所に勤務していた1992年の5月下旬から、6月上旬にかけてのことでした。当時、サンパウロ在住で活動中の日系芸術家5名を、取材したことがありました。サンパウロ人文研究所所長だった宮尾進さんから「ブラジルの日本移民が果たした一番大きな功績は、農業開発の面であることは広く知られている。では、これについで日系人が多く活躍している部門は何かということになると、それは美術界といってもよい」と言われました。そしてそのひとつの証として、ブラジルの百科事典で掲載されている人物の中で日系人が一番多く名を連ねているのは、画家・彫刻家などの芸術家たちであることをあげられました。そこで、『ブラジルの日系芸術家たち』(JICA機関誌海外移住より)の宮尾さんの取材に、私はカメラマンとして同行しました。
 サンパウロ州アチバイア市内のアトリエに、半田知雄さんをお訪ねしました。 このとき半田さんは86歳、お元気で毎日アトリエで絵筆をとらない日はないと、この日も庭に咲いていた黄色の花を花瓶に活け、描いておられました。
 1935年(昭和10年)に、高岡由也さんなど5名の画家と、サンパウロ美術研究会(通称聖美会)を設立。お互いの励みとともに、若い人たちの育成にも努め、間部学さんなどもこの会から育っています。
 半田さんの作品のモチーフには、コーヒー園や農場で働く移民の生活の姿が多いことについて、わたしは直接伺ってみました。
「私の絵は、日常の生活や働いている人たちの風俗であり、移民史的人物画、そのものと言っていいでしょう」と、笑顔で話されました。続けてテーマは「移民の生活」であり、「日本人移民の生活はいつも体全体を動かして働いていた。そのポーズに興味があった。」旨、原始林の開拓やコーヒー園での就労などで、ご苦労された少年時代を偲ぶように、話していただきました。画家として、人間の働く姿に、生命力というか、パワーや美しさを感じられているのだと思いました。
 サンパウロにあるブラジル日本移民史料館には、50点近い半田さんの油絵が保管されています。「いずれ少しはお役に立てるでしょう」と、二束三文の絵と謙遜しながら寄贈されたものと当時の館長から伺いました。海外移住資料館常設コーナーに展示されている作品や、今回、企画展で展示される作品等もその仲間でしょうか。
 取材から4年後、1996年8月、90歳でお亡くなりになりました。
 なお、当時の取材内容と写真は「海外移住」1992年(平成4年)8月号(No,531号)特集『ブラジルの日系画家たち』に掲載されています。
参考書「移民の生活の歴史」半田知雄著1970年サンパウロ人文科学研究所
※上記資料は図書資料室で閲覧頂けます。


サンフアン移住地釣り日記

2015年5月20日
ボランティア 諸橋 茂喜


 ボリビア国のサンフアン移住地西側を流れるヤパカニ川には、乾季の9月頃、下流域アマゾンの魚が産卵に遡上します。魚種は多様で、男たちは競って釣りに興じ、釣果の自慢話が行き交います。釣りは娯楽だけでなく、ある奥さんは「内陸のこの国では、季節の淡水魚が唯一食卓を潤おして、定住の支えにもなった」と話します。だが、この釣りは、自然との闘いでもあることを後に知ることになります。


 ある時、農協役員の慰労一泊釣りキャンプに参加しました。早朝、小型トラックにシートや角材、土木作業具を積みキャンプ地に向かいます。川に通じる山道は木材搬出跡と思われる悪路で、小川があれば角材を渡し、立木を切り倒し前進して漁師の家に着きます。そこで船を借りて川を下り、キャンプ地の砂の中州に着きました。ここはパクー(写真)が良く釣れると言い、この魚は小骨の少ない20キロほどのものです。釣りが始まり、ある役員が貸してくれた井桁の釣糸巻、流し釣りの仕掛けに餌をつけて深みに投げ入れると、暫くしてガツンと手応えを感じます。川底の流木に逃げ込むパクーを間髪入れず砂地を一気に走り、強引に川岸にひきあげて目を回したか、砂上でパクーは無抵抗。この釣りを教えてくれた件の役員が寄って来て「釣れたね」「ハイ、座布団大を」覗き込んで「クッション級だな」と喜んでくれました。
夕方になり、米とチーズと野菜を一緒に炊いたロクロ(ボリビア式リゾット)の夕飯を済ませ、一枚のシートを二つ折りにした間に三人が体を入れて川の字に寝ました。満点の星空に人口衛星の航跡を追っていると、遠くに雷鳴を聞く。暫くすると猛烈な風が砂を舞い上げ、直後の雨は頭から被ったシートの両脇に溜まり冷たい。幸い間もなく雷雨は去ってくれます。
翌朝、「ツルビオンが来る」との声に目覚めると、既に迎えの船が来ています。ツルビオンは、アンデスに降った大量の雨が上流に注ぎ、その水が重なり合った川津波が下流を襲うもの。我々は急遽船に乗り、雨後の悪路を散々な思いで帰宅しました。
今年7月、サンフアン移住地は入植60周年を迎えます。一世から二世へと世代交代も進んでいます。釣りを共にした一世達は、いま、後進に道を譲り、傍らで釣りでも楽しんでいるだろうか。かつて「鳥も通わぬサンフアン」と言われた原始林を、27,000haの緑の豊かな農村に変えたこの人達の恙(つつが)なきを願って止まない。


映画・建築・美術

2015年4月9日
ボランティア 平岩 教子


 2014年12月、カナダ日系人野球チームを題材にした映画「バンクーバーの朝日」が公開されました。当時の街並みや球場がみごとに再現され、タイムスリップしたような感覚になりました。2003年カナダ野球の殿堂入りをしたバンクーバー朝日については、海外資料館だよりの14号と36号でも取り上げています。残念ながら本拠地のパウエル球場は残っておらず、公園になっています。


 移住者を送り出した横浜市根岸の海外移住センター、その前身の横浜移住斡旋所共に建物は残っていません。日本人の海外移住や日系人に関する建造物が次々と姿を消す中、神戸移住センターは神戸市立海外移住と文化の交流センターとして、その姿を残しています。神戸元町から鯉川筋を北上、異人館にも近く、閑静な場所にあります。1928年に開設された建物、窓が印象的で、外観だけでなく内観も一見の価値があります。センター内には移住ミュージアムが併設されています。二階にある宿泊室を再現した展示は、移住者がそこにいるかのような感覚になりました。受付で音声ガイダンスを借りることができ、時間があれば利用されると良いと思います。イペーの花(ブラジルの国花)が咲く4月下旬に行かれるのもお勧めだそうです。


 2014年4月ブラジルの日系人画家の作品を集めた展覧会が、群馬県立館林美術館で開かれました。10人に一人がブラジル人という邑楽(おうら)郡大泉町は館林市からほど近いところに位置しています。2014年ブラジルで開催されたFIFAワールドカップのポスターも手掛けた日系2世の大岩オスカールを中心に、戦前から現代までの作品で構成され、当資料館に展示されている半田知雄、ブラジル文化勲章を受章した大竹富江の作品もありました。大岩オスカールの作品は東京国立近代美術館で見て以来とても印象に残っていました。一度目は友人とバスツアーで、すばらしい作品が一堂に見られるまたとないチャンス、二度目は家族と素敵な美術館を巡りながらゆっくりと見学しました。
日本人の海外移住の歴史や日系人というテーマは、特に若い方はなじみが薄いかもしれません。でも映画・建築・美術、あるいはスポーツ、マンガ・食べ物などのテーマを通して見るといかがでしょうか。少しでも興味をもたれたら、ぜひ資料館に足を運んでみてください。


―教育、初等教育― コロニア-オキナワ サンフアン(ボリビア)

2015年2月25日
ボランティア 安田 幸雄



 海外移住資料館には教育コーナーがあります。移住者たちはどのように子弟を教育したのでしょうか?
 どの自営開拓移住地でも入植前後に移住者が直面するのは子弟の初等教育なのです。先ずは父兄の手によって校舎を建てる事から始まります。
 材料には主に樹木や椰子茸きなどを多く利用して校舎を建てるのです。それに日本から携行した梱包荷物(家財、農機具類)の廃材を無駄なく利用して机、椅子、黒板、演壇、教卓など上手に工作するのです。
 校舎と云えば、掘立小屋に教室(4×8M)を作ります。(教室の生徒数は30人弱)。教室といっても教壇があるわけでもなく、土間の上に机を並べ、その前にポツンと教卓が置かれた殺風景そのものの教室風景なのです。
 それでも目を輝かせて登校する子供たちの元気な声が快く、原始林村の中に響き渡ってゆくのです。教材は勿論教師の手作りの教科書を使います。日本人の教師には家庭の主婦に青年男子です。日本での教師の資格、経験のある方は少なく、学歴には旧制中学や高等女学校卒か新制高卒といったところです。
 日本人の教師を加え少数のボリビア人教師を迎えておぼつかないままに教育が始まったのです。教師不足によって複式授業が多くなり、学力の低下の要因ともなります。こうした幾多の苦難・体験を習得しながら各地域に散在する校舎を市街地へ集約化を図り、効率のよい充実した学力向上へと位置づけるのです。更には教育委員会組織の拡充強化へと移行していきました。
 これらを踏まえてJICAは日本語指導教師の派遣、校舎の増改築、教員宿舎、教師謝金、教師の本邦研修(教授法など)、教材費の助成等の支援に努めました。
 現在では日系社会に於ける移住者子弟に対する人材育成事業の一環として各種の制度のうち、日系社会青年ボランティア、シニアボランティア(日本語教師、幼児教育)の派遣等を図っているのです。


奄美大島とブラジル −宇検村「伯国橋」−

2015年1月7日
ボランティア 松下 里織



 ブラジルと奄美大島。あまり繋がりがないようにみえますが実はそうではありません。沖縄と比べるとわずかですが、奄美大島からもブラジルへ移住した方々はいます。奄美大島には「伯国橋(ブラジル橋)」と名付けられた、ブラジルと奄美大島を結びつける橋もあります。しかし今ではこの橋が架けられた由来を知る人も少なくなったと聞きました。そこでこの場をお借りして「伯国橋」についてご紹介させていただきたいと思います。


 鹿児島県奄美大島では1918年から宇検村(うけんそん)を中心に海外移住者を送り出してきました。この宇検村の村役場そばに湯湾川(ゆわんがわ)という川があり、そこに幅約3mほどの小さなコンクリート製の橋が架かっています。これが「伯国橋」です。戦災で村の3分の2を焼失し、焦土と化したふるさとを救いたいと、ブラジル在住の宇検村出身者達は義援金を集め宇検村へと送りました。送られた義援金は25万円以上もあったそうです。村での話合いにより義援金は分断された集落を結ぶ橋の建設費に使われることになりました。こうして1956年12月「伯国橋」が完成します。「伯国橋」という名前は「集落の総意」で付けられたそうです。「伯国橋」は本当に小さく目立たない橋ですが、奄美大島とブラジルを結ぶこの橋を末永く大切に残してゆかなければと思います。(写真は2014年8月筆者撮影)


第二次世界大戦で活躍した日系アメリカ人二世の女性兵士をご存知ですか。

2014年12月2日
ボランティア 塙 博


 当館の歴史展示コーナーの中程に、「第二次世界大戦中の二世女性部隊」の写真(添付写真)が展示されています。写真には兵舎の建物らしき前面で、日系アメリカ人二世の女性兵士44人と部隊旗らしい旗を持った白人のアメリカ人女性兵士1人が、米国陸軍の女性兵士の制服とギャリソン・キャップ(略帽)を着用して整列しています。
 米軍兵士として、少数ではありますが、日系アメリカ人二世の女性も以下の各部隊に所属し従軍していたことを、一部分だけですが判明しましたのでご紹介致します。

1.陸軍女性部隊(The Women’s Army Corps)
第二次世界大戦中の米国では、150,000人もの女性が兵士として従軍したと報じられています。陸軍女性部隊は、1943年7月に発足し、10月には強制収容所に収容されていた日系アメリカ人二世の女性にも志願が許され、アメリカ市民としての忠誠心を示すために、志願兵に応募する女性が出てきました。その結果300人以上の女性が兵役に服し、アメリカ各地の基地でタイピスト、主計、調査、放送等の兵站業務に従事すると共に、戦後の占領下の日本でも進駐軍兵士として活躍しました。

2.陸軍情報部(Military Intelligence Service/MIS)
第二次世界大戦時に、陸軍女性部隊に入隊した日系アメリカ人二世の女性兵士の中から日本語班をつくるために、47人の隊員が陸軍情報部(MIS)へ派遣され、主に日本語文書の翻訳業務に携わったようです。なお、太平洋戦線では、陸軍情報部語学兵の日系アメリカ人二世の男性兵士は、日本軍の文書の翻訳・解読、捕虜訊問、無線傍受、写真解読、投降勧告等で入手した情報を戦争遂行の戦略・戦術に生かし、多大な戦果を挙げたことが評価されています。トルーマン大統領は「日系アメリカ人二世の情報語学兵はわれらが秘密兵器」と称賛を惜しみませんでした。陸軍情報部語学兵の存在は、長い間秘匿されてきましたが1973年に全貌が開示されました。情報部語学兵は日系アメリカ人二世兵士5,000人(陸軍の日系アメリカ人二世の女性兵士47人を含む)、他人種兵1,000人、合計6,000人に及びました。

3.米国看護教練部隊(U.S.Cadet Nurse Corps)
米国では、第二次世界大戦時の看護師不足を軽減するため、1943年に看護教練生部隊が結成されました。連邦政府による全ての費用負担の代替として、陸軍病院、公立病院、民間病院等での看護奉仕義務を条件に志願者を募りました。強制収容所の日系アメリカ人二世の女性にも応募が認められました。当時全米では、1,250ケ所の看護師養成機関が存在していましたが、日系アメリカ人二世への人種差別で入学を拒否する養成機関も存在していましたので、受入先を探すのに大変苦労しました。入学後は懸命に努力して、看護師資格を取得すると共に、各病院での看護奉仕義務を全うしました。看護教練生の日系アメリカ人二世の女性は350人以上も存在したようです。なお、陸軍看護師部隊(The Army Nurse Corps)に入隊し活躍した日系アメリカ人二世の女性看護師も存在したようです。

引用文献・参考図書
1)「Japanese American Women in Military:Courtesy of JC17C:35,Japanese American Archival Collection,Department of Special Collections and University Archives,Library,California State University,Sacramento」   
2)「第二次世界大戦を生きた日系人女性たちの物語―米国看護教練生部隊を知っていますか?ー:テルマ M.ロビンソン、安斎奈津子他共訳、福井あや子監訳」バベルプレス、 2008年
3)「日系アメリカ女性−三世代の100年―:メイ・T・ナカノ」サイマル出版会、1992   
4)「二世兵士 激戦の記録:柳田由紀子―新潮新書―」新潮社、2012


我が思い出の貴婦人、
「あるぜんちな丸」こと「にっぽん丸」

2014年10月24日
ボランティア 長瀬 威


 弊館の展示場壁面にある船の出帆風景は、昭和48年(1973)2月に、最後の船舶輸送による移住者を乗せて世界一周クルーズに出た「にっぽん丸」のものです。元々この船は、戦後昭和33年(1958)に最新鋭の移住船として建造された「あるぜんちな丸」なのです。しかし、移住者数の減少に伴い飛行機輸送に切り替わる時代が到来して、客船に変身することとなり改名、改造されたのです。私が彼女を貴婦人と呼ぶ所以は、気品のある色彩やスタイルの美しさが未だに我が脳裏に焼き付いているからです。
 さて、時は昭和37年(1962)8月4日、私が26歳のことです。初めての海外出張を命ぜられ、貴婦人と出会ったのは横浜港の「大さん橋」でした。彼女は他船に比べ鼻(煙突)が高く、とっても優雅な雰囲気を醸していました。この美女と太平洋、大西洋を共に旅することとなったのです。私の用務は、移住者の方々を南米の各港まで引率し、その内花嫁移住者11名を無事配偶者に送り届けること、その後は、各地移住者の方々の実態把握にありました。
 その時の私の3ヶ月間の出張手当、即ち外貨持出額は406弗(当時1弗360円)で、何とも心細いかぎりでした。この時代は外貨持出し制限が厳しく、500弗迄だったのです。若い故に500弗以内に収まりましたが、後で携行資金不足のツケが廻ってきます。
さて、サントスに上陸してブラジルの南から北へ視察することになりますが、私には視察者の少ない中部ブラジルを重点的に調査してこいとの特命が有りました。この旅程は珍道中となり、記述したい事は山ほどありますが、紙面の都合で割愛せざるを得ないことは誠に残念です。
 やがて、悪戦苦闘の末、旅の終着地アマゾン大河の河口の町ベレーンに、疲労困憊の果て辿り着きました。早速大阪商船の支店に行き、ブエノス・アイレスから折り返して当地に寄港する貴婦人の乗船予約の確認を行ったところ、今回は当地での積み荷がないので寄港せず、目下沖を航行中とのことでした。私はアマゾンに置き去りにされたと途方に暮れたのです。我がベレン事務所にとって返し幹部と相談した結果、東京本部と当時高価な国際電話を使って状況説明をすることになりました。その結果、マイアミ経由でサン・フランシスコまで飛び、そこで同船を待ち伏せよとのことでした。経費は処理が間に合わぬので、自己立て替えとするとのことでした。ところが、私の旅費の残金は底をついていたのです。所長に頼み込み個人的に借金をすることになったのです。
 このハプニングは、結果的には良かったのです。何故ならロス・アンゼルスに到着すると、フレスノにいる叔母に電話をし、迎えに来てもらったのです。そして、10日余りをフレスノの戦前移住者の大農園で先進国大型農業やヨセミテ国立公園の見学等に当てることが出来たのです。程なく貴婦人とシスコで再会し、ハワイ経由で無事帰国することが出来ました。
 当時は貧しいながらも、古き良き時代でした。組織が強い抱擁力をもって、多くの経験や広い視野、冒険心を養って下さったのです。今もって感謝、感謝です。


「パラグアイ・イグアス移住地の鳥居」

2014年9月10日
ボランティア 樋泉 武


 当館の常設展示に、イグアス移住地のジオラマがあります。およそ9万haの地域の中心部には、市役所、農業協同組合などの建物が集中している市街地があって、何やら鳥居らしきものが建っています。そして、大画面映像には堂々とした朱塗りの鳥居が映し出されます。
 イグアスは、日本海外移住振興株式会社が造成した比較的新しい移住地です。計画的に原始林を開拓し、道路などのインフラを整備して各戸に大区画で分譲した移住地です。ただし、パラグアイの植民地法に基づき、ヨーロッパ系も含めた多国籍移住地で、日系人の土地所有面積は30%程度といわれています。世界三大瀑布の一つ・イグアスの滝から70kmほどの国際道路沿いにあって、大豆の生産が盛んです。1980年からはイグアス市となり、2011年に入植50周年を祝いました。


  古来、日本の村や町には必ず神社があって、鳥居は神域への入口を示すものとして、懐かしい日本の風景でした。そんな鳥居ですが、南米の地にあるのが驚きです。しかも、鳥居としては最も豪華な両部鳥居で、厳島神社の大鳥居と同じタイプのものです。しかし、その先に神社があるわけではありません。
 調べてみると、多くの日系人が暮らすハワイやブラジルなどにも、鳥居だけが建てられている例が沢山ありました。市民間の親善の象徴だったり、移住日本人に対する信頼の証しだったりしますが、日系人の活躍する姿や遠く故国をしのぶ様子が伝わってきます。


「ラッキー! 当事者の証言から学ぶ」

2014年8月6日
ボランティア 大橋 輝美


 館内の展示を見て回る様子や表情から、何かテーマをお持ちだな、と私の勘が働く。日曜日の午後、それらしきお客さまへ声をかけた。今日は二度目の来館だという飯田之夫さんとお連れの女性が二人、皆さん日系ペルー人三世だ。
 リマから来日中の姪御さんを連れてきた。海外移住資料館で父親の顔を見せるという。その名前がファン・カズオ・イイダさんと聞いてびっくり。証言映像(戦後編)に登場するイイダさん。ペルー新報社主として編集した「第一回契約移民考証」が「移民の歴史 第II期」ガラスケースに展示されている。
そして移住者のきずな、教育コーナーの証言映像でもご母堂のタカエ・イイダさんが日本語学校を語って登場している。
 館内を移動して見て回った。姪御さんたちは日本で初めての対面だ。週末にはぺルーへ帰国するので叔父の語る映像を見たことは何よりの土産になった、と感激の表情であった。
 1996年在ペルー日本大使公邸占拠事件に遭遇した父。600人の人質の一人だったが、老人、女性、子供たちとともに早期に解放された。127日目に解決した大事件の渦中にいた当事者。また父親のライフワークであった「第一回契約移民考証」が1999年ペルー移住100周年記念の年に刊行された。長くペルー日本人移住資料館長を務めた。之夫さんたちはそんな父親ファン・カズオ・イイダさんにまつわる思い出を語ってくださった。
 「移住の歴史 第IV期」の展示コーナーで、太平洋戦争中の1942年から1945年まで、家族とともにユタ州トパーズ強制収容所で過ごしたと語るKNさん。10か所の収容所を列挙しその生活を語って、私は聞き役になった。戦後は日本の商社で活躍され現在横浜に住む。
 家族のきずな「ハワイのビッグ・ファミリー」を前に、私の祖先はロシアからアメリカへ移住、その後オーストラリアへ、夫の祖先はその昔イギリスから囚人としてオーストラリアへ送られた、とファミリーツリーを披露してくれたオーストラリア人夫婦のお客さま。
 館内展示や証言映像を裏付ける当事者の証言は、私にとって新しい学びとなる。


「ドゥトラ選手 家族で来館」

2014年7月10日
ボランティア 鏑木 功


©y.f.m

 五月末の土曜日、横浜Fマリノスのドゥトラ選手が夫人と3人の息子を同伴し来館した。案内役の日系3世によると、ブラジル・マラニオン州出身のドゥトラ選手が、隣接するパラー州での日本人移民の方々によるかつてのコショウ産業の開発や、現在における熱帯地域での持続的農業生産手法としての「ア グロ・フォレスト」(森林農業)の実践などが評価の高いものであるところから、7月末のチーム引退・帰国を前に家族、特に息子達にブラジルへの日本移民の起源やその歴史を学ばせたい、との思いからドゥトラ選手の強い希望で見学に来たのだという事だった。
サッカー選手とは思えぬ、意外に小柄に見えたドゥトラ選手の知られざる一面を見た思いと、真摯な姿勢でガイド説明を聞く息子達にも感心させられた。


「青いドラム缶」

2014年6月26日
ボランティア 伊藤 宏


 「最後の移民船にっぽん丸」のコーナーには青いドラム缶が展示されています。南米へ家族で移住する時は必ず、新しいドラム缶を購入し携行して行きました。移住先の現地で何に使用したのでしょうか。それは移住地でお風呂に使用したのです。
 1960年代には各地方自治体の移住相談の時にも必需携行品として案内していました。移住者の多くは、渡航前に2週間ほど横浜移住センターまたは、神戸移住センターに滞在する間に、同センター内の売店で購入し携行したのです。
 値段は当時で3,500円でした。移住先では踏み台をつけたり、上部を切って深さを調節したりしてドラム缶風呂を作り、開拓作業の汗を流し今日1日の疲れを癒したのです。
ドラム缶は単なる荷物の入れ物ではなく、そのものが移住時の必需携行品でした。
 1971年5月に、私もアルゼンチン国のウルキッサ移住地に入植して3年目の移住者の家で、ドラム缶風呂に入りました。初めて入ったときは、木の板が浮いているのでフタかと思って取って入ったところ、底が熱くて飛び出してしまいました。(ドラム缶風呂は、直接薪を燃やして沸かすので、板を踏みながら入るのです。)それでも月を眺めながら、露天のドラム缶風呂に入ったのはいい思い出です。
若い来館者にこの話をすると、「私も入ってみたい」と言われる事があります。移住後5年から8年位すると、農業経営も順調に進み生活が安定し、立派な家が建つようになると、ドラム缶風呂は姿を消します。
 飛行機で移住する時代に入ると荷物の重量制限からドラム缶を持参する移住者はいなくなりました。移住に欠かせなかったドラム缶風呂。ここから開拓当初の生活とその苦労を伝えることができればと思っています。


「コーヒーの香りの向こうに・・・」

2014年5月27日
ボランティア 池谷千恵子


 私は、毎朝目覚めにブラジルコーヒーを飲む習慣がある。手にしているコーヒーの香りの向こうに、水野龍と日本人移住者の姿が浮かぶ。
移民会社皇国殖民会社を設立した水野龍は、明治41年4月28日、契約移民とその家族781人を率いて「笠戸丸」でブラジルへ渡る。これがブラジル移民の始まりである。移住者は、新調したばかりの衣服を身に着け、移民収容所においても行儀良く清潔に暮らすと、当時のブラジルの新聞にも書かれている。
配耕先のコーヒー農場でのコーヒー豆の採集が移住者の主な仕事であったが、慣れない過酷な労働とコーヒーの不作が重なり、この第一回ブラジル移民は大赤字となり、皇国殖民会社は倒産してしまう。  その後、水野龍は高知の豪商武村興右衛門の援助を受け、二回目以降の移民事業を続けることになる。一方、ブラジルのサンパウロ州政府からも、水野龍に救済の手が差し伸べられた。明治45年から大正12年まで12年間、846トン(年間70キロである!)のコーヒー豆が無償提供されたのである。サンパウロ州政府の目的は、日本人にコーヒーそのものをよく知ってもらう事と、将来のコーヒー市場を日本に期待しての事であったが、水野龍と移住者への信頼と評価のたまものであったと考えられる。
 水野龍は合資会社「カフェパウリスタ」を設立し、ブラジルより無償提供されたコーヒー豆を消化すべく、日本各地にコーヒー喫茶店を展開していく。大正8年頃には22店にも及んだ。他のレストランで一杯30銭だったコーヒーを、「カフェパウリスタ」では一杯5銭で飲むことが出来た。
 大正時代、繊維産業や製鉄所が好景気に恵まれ、大正リベラリズムが盛んだった頃、「カフェパウリスタ」は多くの文化人の交流の場であった。現在も営業している銀座8丁目の「カフェパウリスタ」には、芥川龍之介、森鴎外、高村光太郎、高村智恵子等、私の大好きな文化人もよく訪れていたようだ。
 ブラジルのサンパウロ州政府が10年に渡り無償提供してくれたコーヒー豆のおかげで、日本人にコーヒー嗜好が広がったと言っても過言ではない。(日本は世界第3位のコーヒー消費国である!)そしてまた、日本の文化向上にも一役かったことになる。
水野龍と日本人移住者の苦労に感謝しつつ、今朝のコーヒーを飲み干した。                     

参考図書:「カフェパウリスタ物語」(文園社)長谷川泰三


「企画展“雄飛”屏風絵から見る沖縄」

2014年5月2日
ボランティア 新保 猛


 入口、首里那覇港図(八曲一双屏風)に注目。中央の大型船が目を引く。別名進貢船と言い、沖縄が独立国として琉球と呼ばれた頃、朝貢貿易で明に送った大型船。型状は中国のジャンクと呼ぶ伝統的な船を使った。全長35〜40m。帆柱は30mもの高さになる当時世界有数の性能を誇る外洋航海用大型船。特徴は黒と赤を基調とした船体と前方側面に目玉を描いて航海中種々の悪霊に対するニラミを効かせる為。
 絵画は民俗資料の宝庫とも。港湾、船、橋、道路、家屋、人物や大小約六十隻の船。西洋の三本マストからハーリー見物の船、薩摩藩の御用船も。丁寧に那覇の賑わいをよく伝えている。陸上の風物には地名も書かれ、地図情報の趣もある。又薩摩藩の行列も居て、当時の沖縄の事情を残す。江戸期沖縄風俗絵図とも言える。海洋国家、沖縄を代表する多様な船の図は力量ある画家の一幅だ。
※ 首里那覇港図の実物は沖縄県立博物館・美術館に所蔵されています。


「『つぶやき』から」

2014年4月24日
ボランティア 相磯 榮一


 「衣・食については展示があるけれど、家はないね」という「つぶやき」を耳にしました。移住者の家庭コーナー付近からの声だったのです。さっそく館内を見ると映像や写真での紹介はされていますが、再現展示はありません。
 図書資料室で司書担当者に調べてもらうと、半田知雄画伯の著した「移民の生活の歴史」を探してくれました。住居とその内部の項目に「ファゼンダの家にはレンガづくりで屋根は円瓦のものがある。こういうところは地面はレンガ敷きになっている。窓には木の戸はついているが、ほとんどガラス戸はない。もしレンガづくりで白亜の壁、ガラス窓のついた家であったら、もう貧農とはいえないし、・・・・・」と書かれている箇所に興味を感じたのです。
 愛知県の博物館明治村にある「ブラジル移民住宅」を見学に行きました。移民住宅は木造二階建、切妻造(棟を境にして、左右に二つの斜面をふきおろした屋根)の住宅です。一階は納屋と台所兼出入り口があり、床はレンガ敷きでした。二階は居室で4室あり、床も天井も壁も板張りで和風の印象です。出入りは台所の階段とベランダ側の外階段を使っていたようです。ベランダのついている側の2室の窓はガラス戸で両開き、他の2室は片開き板戸窓になっていました。屋根は現地産スペイン瓦で葺いていたようです。半田氏の説明通りの住宅でした。
 「つぶやき」から知る機会を得る事ができました。これからも「つぶやき」を大事にし、案内にいかしていきたいと思います。
*「ファゼンダ」はポルトガル語で「農場」の意。


「海外移民と邦字新聞」

2014年2月6日
ボランティア 河村 憲一


 海外移住資料館には移住者の生活に関する展示物が沢山あり、出口付近には教育、邦字新聞、医療関係に関するコーナーがあります。初期の移住者にとって最大の難関であった言葉の壁だけでなく、人種差別や文化的・社会的風習が相違する中で、現地に於ける教育や医療問題等に関する不安要素は想像を絶したものであったと考えられます。情報手段の多い現在とは全く違っており、農業移住は基本的に都会から離れた山岳地帯である事が多かったため、情報入手に限界があった中での邦字新聞の存在は、祖国日本の動向を得る唯一の手段となっていました。経済的、社会的環境だけでなく、同県出身者及び同船移住者の動向を掌握する意味でも、現地日系社会に大きな安心感及び連帯感を与えたのではと推測します。
 今日でも移住先国に多くの邦字新聞が存在しています。それらが現地日系社会に於ける教育文化水準向上に大きく貢献しただけでなく、英文タイプと比較して極端に文字数が多く、操作自体に熟練を要する和文式タイプを操作できる移住者が多く存在していたという事になります。移住者の農業技術水準の高さだけでなく、精神的安心感と効果的な情報提供を行った移住者の工業技術水準の高さにも思いを馳せる事が出来ます。


「コーヒー農場とコロノの話」

2014年1月16日
ボランティア 諸橋 茂喜


 今年は、FIFAワールドカップ2014ブラジル大会の年、日本代表チームも出場します。ブラジルは、1908(明治41)年以降、日本人が移住した国です。多くがサンパウロ州のコーヒー農場で働きました。現在、ブラジルの日系人数は推計150万人(2011年、外務省)。日系人と親日市民の多いサンパウロでの日本チームの試合は、熱烈な応援を受けることになるでしょう。
 『楽隊がなり始める。すると突堤にびっしりと並んだ小学生たちが、今まで巻いていた小旗を一斉に開いた。日章旗であった。それを打ち振り、打ち振り歌いだした。♪行けや同胞海越えて、南の国やブラジルの・・、未開の富を開くべき、これぞ雄々しき開拓者・・』これは、石川達三の小説「蒼氓」に描く、1930(昭和5)年3月15日午後4時、移民船「ら・ぷらたまる」の神戸港出港情景の一部です。
 ブラジルでは、コーヒー農場で働く年間契約労働者を、コロノと呼びます。サンパウロ州などの南部ブラジルは、9月に雨季に入り、春となり、農作業も忙しくなります。10月頃にコーヒーの花が咲き始め、甘い香りが農場いっぱいに広がります。花が散って実がなり、年をまたぎ肥大し、成熟して赤く色着いた果実は、7月頃に収穫が始まり、9月に終わります。これがコーヒー農場の農年度です。
 コロノと農場主は、通常、農年度毎に労働契約を結びます。契約内容は、年間の作物管理と除草作業の基準となるコーヒーの木の引き受け本数を決めます。一人当たり2.000本、3人の働き手(15歳以上)がいる家族の場合、6,000本が標準だったと言います。次に、コーヒー果実の収穫、一袋当たりの賃金とされ、この単価契約を行います。更に、農場内の道路と建物等の補修工事の仕事があり、この日当額が決められます。以上がコロノの年間作業で、この対価が収入となります。この他に、当時の農場では、3年以下のコーヒーの木の畦間と休耕畑で短期作物の耕作が認められました。これは、コロノの余暇労働によるもので、コロノは、そこに陸稲、トウモロコシ、野菜等を栽培し、生産物を自家消費、余剰は販売します。
 以上の契約で如何程の収入となるのでしょうか。1923(大正12)年に外務省が調査した5人家族、稼働力3人、コロノ生活2年目の日本移民の収支表は、概算、収入1,028円、支出661円、余剰367円としています。



 


 
 
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