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HOME > 海外移住資料館だより > 第25号 海外移住探検隊 Vol.10

        モルフィーちゃんと行く!海外移住探検隊 Vol.10

モルフィーちゃん
南米日本人移住地今昔

〜1964から現在〜
 

 1964(昭和39)年。東海道新幹線が開業し、東京オリンピックが開催されます。第2次世界大戦の敗戦から立ち直り、時代は、まさに経済成長の新しい段階を迎えていました。企画展示室で開催する「南米日本人移住地今昔〜1964から現在〜」は、戦後、南米各国へ、主に開拓農業移住者として渡った日本人のもう一つの1964年の記録です。南米に新天地を求めた人たちはどのような生活を送っていたのでしょうか。

中南米移住地記録写真集 1964
 1963(昭和38)年7月に、戦後の海外移住を推進してきた日本海外協会連合会と日本海外移住振興株式会社が統合され、海外移住事業団(JEMIS)が設立されました。翌1964(昭和39)年には、各都道府県に地方事務所が設置され、海外事務所とともに国内外を通じて、募集から現地での支援までを一貫した組織体制が整いました。写真集は、日本国内における海外移住普及の広報活動の一環として各国の移住地を紹介する目的で制作されました。



パラグアイの首都アスンシオンにある日本パラグアイ学院。日系人ではない子どもたちも多く通っている
 
パラグアイ、イグアス移住地に開校した小学校


人口対策から、行きたい人が主役の移住へ

 戦後、1950(昭和25)年までに、中国大陸など海外から引き揚げてきた人の数は、およそ600万人。日本国内の産業は疲弊し、農村も荒廃しており、日本は、増え続ける人口や食糧難などの問題を抱えていました。
  戦時中、中断していた海外移住は1952(昭和27)年に再開され、移住者の数も1956(昭和31)年から毎年6,000人台、7,000人台と増え続け、1960(昭和35)年に8,386人とピークを迎えます。しかし、翌1961(昭和36)年に6,000人台に減り、1962(昭和37)年には2,201人と一気に減少し、1963(昭和38)年からは1,000人台となります。経済発展が進むにつれ、畑を継げない農家の二男三男が、働き口を求め海外移住を考えなければならないような状況は徐々に少なくなっていきました。それでも1965(昭和40)年を除き、1973(昭和48)年までは毎年、1,000人以上の人が南米に移住しています。
  1962(昭和37)年、総理大臣の諮問機関である海外移住審議会は、状況が変化した海外移住について、「単なる労働力の移動ではなく、国民に海外での創造的な活動の場を与え、相手国への開発協力と世界の福祉に貢献すること」を政策の理念とし、その目標は「移住者の送出にあるのではなく、移住先での円滑な定着に置かれるべきである」と答申しました。これに基づいて、翌1963(昭和38)年に、海外移住事業団が設立されます。

1965年に海外移住事業団に入団した資料館ボランティアの松田さんに聞く
 1964年の三月革命で新政権となったブラジルでは、前政権から展開されていた道路網の整備、農地改革、農村電化、識字教育等の開発計画が進められました。ブラジルも高度成長の時代でした。移住者は自己の持つ技術や能力を海外で伸ばしていく。海外へ行きたい人が主役。事業団はそれを支援していきました。農業移住者は農業技術者として、事業団は移住地の営農支援を通して地域開発に協力する。コーヒー、綿花、胡椒、馬鈴薯、トマト等の野菜類、果樹、花、養鶏、牧畜等、多くの農産物を供給し相手国にも歓迎されました。事業団直営のブラジルのグァタパラ移住地では、主産物の米、鶏卵、養蚕を称して、三白農業と呼んでいました。



 戦前戦後を通じて、日本人移住者はブラジルの農業発展に貢献し、野菜を食べる習慣のなかったブラジル人の食文化を大きく変えたと言われているの。「日本人は農業の神様」と称えられ、感謝されているのよ。



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地域社会や移住先の国作りに貢献

 こうして、新天地である南米に移住した日本人たちは、その能力を各地で開花させていきます。気候や風土の違う異国での開拓生活には苦難が伴いましたが、持ち前の忍耐強さと努力、高い技術で、適合する作物を見つけ、品種を改良・増産しました。また組合組織を通じて販路を拡大して生産物を市場へ供給し、雇用を生み、地域社会にも貢献してきました。例えば、日本人がパラグアイで始めた大豆の不耕起栽培は、同国を大豆生産量で世界第6位、輸出量では第4位に押し上げ、同国の国作りに貢献しています。
  昨年3月11日、日本を襲った東日本大震災の被害に心を痛め、真っ先に被災地支援に立ち上がったのも海外にいる日系人でした。各国各地の日系人は震災の翌日にはすぐに募金などの支援活動に着手し、支援の輪は、移住先各国の人々にも大きく広がり、大使館や赤十字を通じて多額の義援金が被災地に送られました。
  また、パラグアイのイグアス農協が、日系農家の生産した大豆100トンを寄付し、パラグアイの全移住地とパラグアイ国民からの寄付で、豆腐を日本で生産し、被災地に100万丁の豆腐を送る運動が今も続けられています。「祖国が苦況に陥った時、支援できるレベルまできたことに誇りを感じます」とイグアス日本人会の福井一朗会長は語っています。


パラグアイ、イグアス移住地 の大豆畑
写真提供:(株)ギアリンクス


モルフィーちゃん

 不耕起栽培(ふこうきさいばい)というのは、収穫が終わった畑を耕さずにそのまま種をまく方法なの。大雨で大地の養分が流れ出してしまうのを防ぎ、労力や費用の削減にもなるので、海外からも注目されているのよ。


アルゼンチン、ガルアペー移住地の運動会。娯楽に乏しい移住地で、
運動会は地域の人が集まる一大イベントだった

ボリビア、サンフアン移住地。一家そろっての朝食。「パンとコーヒー、果物が普通であるが、バナナだけはだんだん嫌になってくる」と写真集の説明にはある

 
サンパウロ市近郊、イタケーラのカキの収穫。カキは日本人がブラジルに持ち込み、現地でも「カキ」の名前が定着している。同じく日本人が広めた、デコポンやポンカンもそのままの名前で呼ばれている

       

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子孫に受け継がれる移住地作りの夢

 1964年当時の移住地の写真をみると、移住した日本人が移住先国で、日本人による日本人の、自分たちのふるさととなる理想郷作りを目指したのだということが分かります。
  一から村を作り、学校を作り、子どもたちに日本語を教え、運動会、盆踊りや村祭りに集う。そこにあるのは、日本と変わらない、昭和の生活の風景そのものです。
  移住地を開いた両親や祖父母が伝えた日本人の心を、日系人というアイデンティティとして受け継いだ2世3世が、毎年JICA日系研修員として来日し、様々な分野で高いレベルの専門技術を学び、帰国後は、移住先国の発展に貢献しています。

 移住先の開拓地で、「ヨーロッパ人は最初に教会を作った。日本人移民はまず学校を作った」と言われているのよ。日本人の教育熱心さを表しているわね。

 

 
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