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第25号 2012 Spring

南米の日本人移住地は今

 ブラジルをはじめとする南米には第2次大戦前約23万人、戦後では約7万人が日本から移住しました。 そうした国々で、日本人が集団で移住し、今でも「移住地」と呼ばれる地域があります。 全パラグアイ日系人教育推進委員会事務局長の合田義雄さんにパラグアイの4つの移住地で行われている 日本語教育の現状を、トメアスー農協理事の小長野道則さんにブラジル、 アマゾンのトメアスー移住地の農業の変遷を、お聞きしました。

パラグアイ人にも 日本語学校はステータス

合田義雄(ごうだ よしお)
東京農業大学農業拓殖学科卒。大学の仲間と共同農場を経営するため、1974年、グループでイグアス移住地に入植。パラグアイ日本人会連合会事務局長、全パラグアイ日系人教育推進委員会事務局長を兼務。パラグアイ国内の日系子弟教育と日本語教育問題に携わっている。

 パラグアイの移住地*の日本語学校は、ボリビアの移住地にあるような、午前中はボリビア政府の義務教育の授業をして午後に日本語を教えるカリキュラムとは違い、日本語と日本文化に特化しています。午前中はパラグアイの学校に行って、午後に日本語学校に行く。最近はだんだん、パラグアイの学校もカリキュラムが増えて、日本語学校に行ける時間が少なくなりつつあります。
 ただ、首都のアスンシオンには「日本パラグアイ学院」という10年前に日系団体が協力して作った、午前はパラグアイの義務教育課程をして、午後に日本語と日本文化の授業をする学校もあります。寮はなく、生徒の多くはアスンシオン近辺に住んでいて、90%近くは日系人ではない、地元の子どもたちです。
 イグアス移住地でも、パラグアイで一番古いラ・コルメナ移住地でも、日本語学校に通う生徒の半分は、すでに家庭ではスペイン語を話す環境にありますが、その地区に住んでいる日系人は経済力があり、生活も安定していて信用もある。日系以外の人たちも、自分の子どもたちも、将来、日系人のように、時間を守り、規律正しく、礼儀正しい大人になってほしいと願い、日本語学校に通わせるのだと思います。
 また、パラグアイの公教育の学校は半日しかないので、子どもがあとの半日は遊んでしまう。日本語学校に通わせたら面倒もみてくれるし、友達もできる。子どもを日本語学校に通わせることが一種のステータスになっている印象がありますね。

編集部注
* 移住地:
日本人が集団で入植した土地。現在では、現地の市町村になっている地域もある。現地語ではコロニア(植民地)と呼ばれ、ブラジル日系社会では、日系社会を総称してコロニアと呼ぶ場合もある。


現在のイグアス日本語学校。1963年に開校。現在は小学校1年生から高校1年生 まで約140人の生徒が学んでいる。別に幼稚園(約40名)も併設。

移住地ごとに異なる日本語事情
 各移住地で学校が開校された当初は、生徒は100%日本人移住者の子どもたちで、日本語で日本の国語・算数等の教科を教える学校でした。やがて子どもたちはパラグアイの公教育を受けるようになり、日本語のみを教える日本語学校になったのです。イグアス日本語学校では現在、生徒の25%は日系人ではない子どもで、25%は両親の一方が日系人。つまり、半分以上の生徒の家庭では日本語を使っていません。ですから10年ぐらい前に、家庭で日本語を話す子どものクラスと、家庭でスペイン語を話す子どものクラスのカリキュラムを別にして、二つのコースを作りました。
 現在のところ、パラグアイの移住地でそれだけはっきりとカリキュラムが分かれているのはイグアス移住地だけです。ピラポ移住地やフラム(現在のラ・パス)移住地では、80%以上の生徒の家庭で、普段日本語が使われています。残りは家庭で日本語を話していない子どもたちなので、普段は一緒のクラスで勉強していますが、時々、別のクラスに分けて、会話や文法中心の授業を行っています。
 イグアス日本語学校は毎日開校していますが、小学生は週3日、中学生は週2日通学します。ラ・パスでは小学生は週2日、中学生は土曜日だけの通学で、ピラポでは週1日、土曜日だけの開校です。ピラポの場合、平日、子どもたちは40Kmほど離れた町のレベルの高い中学校や高校に、下宿したりスクールバスで通ったりしているので、学校が休みの土曜日だけ移住地の日本語学校に通学しているのです。


南米の日本人移住地は今

アグロフォレストリーは 里山の知恵

小長野道則(こながの みちのり)
1958年鹿児島県南大隅町生まれ。1960年2歳でパラー州トメアスーに移住。1995年よりボランティアで非日系小農への技術普及を開始。2010年連邦政府より地域開発賞経営管理部門最優秀賞を受賞。トメアスー総合農業協同組合(CAMTA)理事。トメアスー市農業環境観光局長

 1929年に日本人が初めてトメアスー(当時はアカラ)に移住しました。開拓当初、コンパニア(会社)*1は、移住地の主作物となるよう、カカオを植えるよう勧めました。カカオは取れるのが4年目以降なので、初めの頃は、自分たちが消費する野菜作り、米作りをして、収入を得るため町で販売しようとしましたが、アマゾンでは野菜はほとんど食べられていなかったので、ベレン(パラー州の州都)に住んでいるヨーロッパ系の移民のところまで行って、日系人が野菜の食べ方を教え、売れるようになったのです。
 原生林を倒して、焼いて、そこにカカオを植えたのですが、当時はアマゾンのどういうところで栽培されているのかなどの調査がされておらず、日に焼け、風にあおられ、動物に食べられ、虫にやられるなどで成功しなかったのです。次の策として胡椒(ピメンタ)の苗をシンガポールから取り寄せて2本の苗が育ちました。そこから、農業関係の方々が一生懸命に育てて、みなさんに配って、それが一つのトメアスーの産業としてつながってきたのです。胡椒の国際価格は1950年代前半から急騰してピメンタ御殿と呼ばれる立派な家が建ったのですが、1960年代に入ると病害で軒並み枯れてしまいました。
 そうしたときに、昔やっていたカカオをもう一度植えてみましょうということになりました。前回のような失敗をしないように、残った胡椒用に使っていた支柱に針金を張り、つる性植物のパッションフルーツを植えて、その間にカカオを植え、風が直接当たらないようにしました。木材になるマホガニーとかイペーなどの木を植えて日陰を作ると、カカオが成長し始めたのです。これが今、世界で注目されているアグロフォレストリー*2の原型です。
 移住地外の現地の人たちにもこれを教える活動を、ずっとボランティアで行ってきました。最初は貸した苗が返ってこないようなこともありましたが、農業も人作りが大切なので根気よく続けました。ジュース工場を拡大し、生産物を買い取るシステムができあがったので、現地の人にもアグロフォレストリーは広まっています。
 なぜ日本人がそのようなことを始めたのか。3年ほど前に日本で出席したシンポジウムで、日本古来の農業である、「里山*3プロジェクト」の発表を聞いたときに気づきました。
 日本人は、小さな土地を大事に田んぼを作り、野菜畑を作り、斜面には茶畑を作り、山には木を植え、炭窯を作る。そういうやり方で、日本人は何百年も同じ場所で、大切に土地を使って生活してきたのです。そんな人たちが田舎からアマゾンに渡って20ヘクタールいただいた土地を大事に使ってきた。ヨーロッパ系の多くの人たちは、「ここは地獄だ」と言って出て行ったのです。ですが日系人は残った。日本に帰る資金も無く骨をうずめる覚悟で一生懸命に農業に携わってきた人たちが、昔の日本、自分たちの故郷の様子を思い出して、試したシステムだったのです。

編集部注
*1 コンパニア・ニッポニカ・デ・ プランタソン・ド・ブラジル:
パラー州政府提供による土地を開拓し日本人の植民地を作る目的で、1928年に日本の国の政策により設立された南米拓殖株式会社のブラジル現地法人。

*2 アグロフォレストリー:
樹木を植栽し、木の間で家畜や農産物を飼育・栽培する農林業。組み合わせる樹木や家畜・農作物が地域によって異なるため、地域ごとに様々な形態をとる。
*3 里山:
農業の生産・消費活動の一環として利用される、人の手の入った森や林のこと。


カカオやバナナなどを混植 してアグロフォレストリーの 森が出来上がっていく

 
アグロフォレストリーの普及活動を行う小長野さん

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ジュース工場が地域経済の中心に

斉木 仁 イヴァン
トメアスー総合農業協同組合(CAMTA)専務理事・ジュース工場長、ブラジル協同組合普及機構パラー州支部(SESCOOP-PA)理事


写真提供:HANDS

 1987年にJICA(当時は国際協力事業団)に、ジュース工場を作ってもらいました。僕たちは「あぁ、大きなジュース工場だな。安心してこれから果物を生産していけるな」と思っていたのですが、1週間もすると、47トンの冷凍庫では小さくて入りきらず、果物もジュースの中身も腐って捨てることになってしまいました。それで、銀行から融資してもらって、冷凍庫を150トンに拡張しました。当時はパッションフルーツ、カランボーラ、グラビオーラ、クプアスー、アサイー、タペレバ、アセロラの7種類の果物を扱っていたのですが、今では14種類に増え、冷凍庫は2,000トンになりました。年間4,000トンほどの生産量があるので、本当は4,000トンの冷凍庫を備えるのが理想的です。
 アグロフォレストリーというシステムがうまく回っているのは、ジュース工場ができたお陰です。販売元がちゃんとできているとアグロフォレストリーの面積も大きくなって農家の人たちも潤っていく。もし、ジュース工場がなかったら、農協はつぶれてトメアスーはダメになっていたと思いますね。

 

 
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