海外移住資料館
新着情報
概要
常設展示
企画展・催し物
学習プログラム
利用案内・交通案内
図書資料室(海外移住)
ボランティア活動
海外移住資料館だより
移住資料ネットワーク化プロジェクト
キッズコーナー

情報検索システム
キッズコーナー貸出教材 いみんトランク 貸出についてはこちら
企画展『海を渡った花嫁物語』特別サイト 特別展示 移民の暮らし
特別展示 ハワイに生きる日系人

独立行政法人 国際協力機構 JICA横浜


 

HOME > 海外移住資料館だより > 望郷〜夢見るたくわん

望郷〜夢見るたくわん

広告に見る「タクワン貿易」と日本文化


「日米タイムズ」に 掲載されたたくわんの広告(彩色)

 資料館では現在、「望郷〜夢見るたくわん 広告に見る『タクワン貿易』と日本文化」と題した特別展示を開催中です(〜11/6まで)。
まだ移住者が船で海外へ渡っていた時代。現代のように、インターネットもなければ飛行機による輸送網も整備されておらず、ふるさと日本のものは何ひとつとして簡単には手に入りませんでした。
日本人移民が夢にまで見るほど恋しかったのは、「たくわん」に象徴される「日本の味」「ふるさとの味」。それを叶えたのが「タクワン貿易」なのです。

「タクワン貿易」・・・って何??

  想像してみてください。私たちが普段当たり前のように口にしている炊きたての白いご飯やお味噌汁、醤油や漬け物など、普段慣れ親しんでいるものが、もしも一切手に入らなくなったとしたら・・・?
  いまから100年以上も前に、そんな世界に旅立っていった移住者たち。異国の地で慣れない生活のなか、思い描くのは懐かしいふるさとの味でした。日本食への恋しさが望郷の念となって膨れあがり、抑えられないものになっていったことは想像に難くないでしょう。
  「タクワン貿易」―それは、日本人移民が単に「たくわん」を日本から輸入した・・・というだけの話ではありません。もともとは、仲間同士で食材や調味料などを細々と日本から送ってもらっていたことに端を発し、やがてそれを専門に扱う店や貿易商が現れ、事業として発展していきました。最初は、醤油や味噌、酢をはじめ、保存のきく調味料や乾物などが中心でしたが、やはり日本人の食卓とは切っても切れないたくわんまで輸入していたことから、いつしか「タクワン貿易」と呼ばれるようになったのです。当時の日本人移民の、日本食に対する憧れや望郷の気持ちがたくわんに込められているのかもしれません。


ほまれ沢庵(1930年代の缶詰ラベル)
(横浜開港資料館蔵)
 
WEL-PACたくあん (1950〜60年代の邦字紙に 掲載されていた広告)
「タクワン貿易」で戦前に輸入されていた缶詰(複製)    

「タクワン貿易」は北米の日本食ブームのルーツ?

 1900年代はじめから北米オレゴン州で「タクワン貿易」商品を取り扱っていた店のひとつ「安井兄弟商会」の当時の商品リストを見ると、米、味噌、漬け物、醤油や乾物、豆、日本茶、台所用品など実にさまざまな商品が並んでいますが、中でも目をひくのは缶詰商品の豊富さです。筍、蓮根、牛蒡、ふき、獨活など日本野菜の水煮缶が豊富に取りそろえられていることから、現地で手に入れることのできない野菜は全て缶詰にして輸入したかったのだろうということがわかります。ふるさとの味に対する人々の思いは、それほどまでに熱烈なものなのでしょう。
  移住者たちが切望したのは、食品だけではありません。日本の雑誌や本、レコードといったものも、異国での心の乾きを癒すために必要なものでした。海外で発行されていた邦字新聞の広告を見てみると、ひな人形など、日本の伝統文化にまつわるものまでが輸入されていたことがわかります。
  もともとはハワイ移民の望郷の思いからはじまった「タクワン貿易」ですが、その後、サンフランシスコやシアトルなどからアメリカ全土へと広がり、徐々に現地の人々が日本食や日本文化に触れる機会も増えていきました。海外向けにデザインされた色とりどりの缶詰ラベルには、「Geisha」や「Sakura」、「桃太郎」、「藤娘」など、いかにも日本をイメージさせるようなブランド名が並び、描かれているイラストもとてもカラフルで目を楽しませてくれます。また、大和煮、みやこ煮、富士見煮などなど、たくさんの煮物商品もあり、ふるさとの味を届けようとした当時の人々の努力が偲ばれます。
  現在、日本食文化はアメリカ大陸をはじめ、世界中で広く受け入れられていますが、その始まりには、日本人移民の存在と彼らの生活が、間違いなく大きな影響を与えていたと言えるでしょう。

北米で発行されていた邦字紙「日米タイムズ」に 掲載されたヤマサ醤油の広告(1956年)


戦争と「タクワン貿易」
JFCインターナショナル(キッコーマングループ)榎本博行社長のお話
 


JFC榎本社長
 

 私たちは、戦前から米・味噌・醤油などを中心に横浜から持ち込み、サンフランシスコに送っていました。第二次世界大戦で「タクワン貿易」は一度途絶えましたが、大戦中もキッコーマンは収容所に醤油を送っています。
  一方、ブラジルでは戦争により日本食の輸出入が途絶えたため、自分たちで作るようになりました。ブラジルに「タクワン貿易」が普及しなかったのは、そのためです。また、ブラジルは食品に高い関税がかけられているため、外から食料を入れるのが難しいことも、現地産が発展した理由のひとつだと思います。現在では、ブラジル産の醤油も味噌も豆腐もあり、さまざまな独自ブランドが展開されています。3世、4世になると現地産のほうが馴染み深く、キッコーマンを知らない人もいるようですね。


1943年、北米の強制収容所に送るために日本中から集められた醤油、 味噌、日本茶など  
収容された日本人が、日本から届いたキッコーマンの醤油樽を拝んでいる様子が描かれたヘンリー杉本の作品 「収容所内の同胞への日本からの贈物」 (和歌山市民図書館蔵)

オレゴン州フード・リバーで「タクワン貿易」商品を取り扱っていた「安井兄弟商会」
ホーマー・ヤスイさんのお話

 クリスマスとお正月前の時期は、叔父が経営する安井兄弟商会にとって間違いなく1年で一番忙しい時期でした。10代のころ、ニューイヤー・ホリデーの前になると、私はすぐ上の兄と一緒に母や叔母を車に乗せて、フード・リバー周辺の日本人の家を一軒一軒訪ねてまわり、お正月の注文を取りつけたものです。当時ライバル関係にあった「古屋商店」に負けないことが目的でした。母は、このような注文の取り方を、「オーダーつなぎ」と呼んでいました。

 
日系商店の巡回販売員 (古屋商店、1920年頃)   安井兄弟商会 (1920年頃)

 

横浜と「タクワン貿易」

  資料館のあるここ横浜。長者町には明治・大正・昭和にかけて、横浜を基点に食料・雑貨品の輸出入を行っていた貿易商「駒田商店」がありました。創業者の駒田常三郎氏は、文久3(1863)年三重県に生まれ、27歳の時サンフランシスコに渡り、のちに日本料理店と雑貨店を開きます。その後、一時帰国して長者町に「駒田商店」を新設、サンフランシスコを支店として、本格的に「タクワン貿易」をはじめました。横浜と「タクワン貿易」には、100年以上の深い関わりがあるのです。
  展示では、横浜開港資料館に所蔵されている「駒田家文書」の中から、駒田商店が「タクワン貿易」の担い手であったことを示す資料の一部をお借りして紹介しています。
(参考)横浜開港資料館館報「開港のひろば」第55号



駒田商店がサンフランシスコの支店を経由して北米の日系商店へ日本酒や醤油、 缶詰などを卸していたことを伺わせるハガキ
(資料提供:横浜開港資料館)

 

 
このページの先頭へ
JICA ロゴ
海外移住資料館ホームページHOME