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HOME > 海外移住資料館だより > 第20号

占領下の日本を記録した日系二世兵士 リチャード・H・コサキさんに聞く
 

アメリカ合衆国のMIS(陸軍情報部)兵として終戦直後の日本に滞在し、 当時の日本の様子を撮影したのは、ハワイ生まれの二世、リチャード・H・コサキさん。
彼の目に、戦争に敗れた両親の祖国日本はどのように映ったのでしょう。
また、当時の日系人の置かれていた状況や、MISの任務についてなど、コサキさんが語っています。
(インタビュー:2006年ハワイ日系退役軍人クラブ)

 

 

これは演習じゃない。戦争だ!

 

1964年、大阪で。手にしているカメラで終戦直後の日本を撮影した

 その日は日曜日でした。朝、自転車でホノルル市内のカピオラニ公園に出かけたのです。そこら中でずっとサイレンが鳴り続けていたので、海岸の石垣の所で自転車を停め、真珠湾の方向を見ながら、「今日の軍事演習はずいぶん規模が大きいなあ」と思いました。戦闘機が飛び交い、銃弾の音も聞こえました。その光景を見ていたら、近所の人が走ってきて「家に帰りなさい、これは演習じゃない。戦争だ!」と言われました。私は急いで家に帰りました。
近隣のトーマス・ジェファーソン高校に救護所が開設され、私は当初ボランティアとして、まもなく有給で働くことになりました。救護所に来るけが人は、実際はオートバイ事故の負傷者などでした。日系人だからという理由で、救護所にて敵意を抱かれることはありませんでした。中国人、白人、ハワイアンなどさまざまな人々と一緒に働きました。
当時私は、マッキンリー高校の3年生でした。マッキンリー高校は日系人の多 い学校でした。真珠湾攻撃のすぐ後、日本軍のパイロットの中にマッキンリーの卒業生がいるとの噂が流れ、その記事が『タイム』誌に載りました。私や友人は学校の先生から『タイム』誌に手紙を書いて反論するように勧められ、その手紙が『タイム』誌に掲載されました。ここにある、表紙にマッカーサー将軍の写真が載った1942年3月30日のものです。
噂の出所はわかりませんでした。真珠湾攻撃の直後には、根も葉もない噂が町じゅうに流れていて、その当時の町の空気は今からはとても想像ができないでしょう。

志願するのは自然なことだった

  私がなぜ兵役に志願したのか、それは重要な問いだと思います。私たちは、自分の周囲に有って、自分を駆り立てている社会の力には気づきにくいものです。私はただ、ごく普通に育ったと思っていました。私の育った地域はハワイの中でもコスモポリタンな雰囲気で、ポルトガルやドイツから来た家族も、アメリカ合衆国本土から来た白人も日系人も、共に暮らしていました。私は家族にも近隣にも恵まれ、素晴らしい学校教育を受けました。戦争が始まった時、私は、自分の国は守るものだ、兵役に志願することが自分にできることだと考えました。若い頃には立ち止まって自分の人生を真剣に考えることはしないものだと思います。私にとっては、志願はごく自然なことでした。
アメリカ合衆国本土で強制収容所から志願した人々のことも、「ノーノー・ボーイ」*だった人々のこともまた、尊敬しています。私が本土にいたとしたら、どうしたかは分かりません。もしハワイで日系人の立ち退きのようなことがあれば、大きな抵抗があったかもしれないとは思います。理由は経済的なものだけではありません。
真珠湾攻撃の前の夏、私はボストンへ行き、その帰路、ロサンゼルスの日系人家族の家に泊めてもらったことがありました。その時、お互いの生活様式の違い―カーペットが敷かれ、家じゅう靴を履いて歩き、帽子をかぶってきちんとした身なりをし、ハワイの私たちよりもきれいな英語を話すことなど―に、驚きました。彼らが暮らす環境は、私たちとは違いました。ハワイではお互いが自由に混ざり合っていましたが、彼らは日本人地区であるリトルトーキョーに住み、精神的にも自分たちのグループに閉じこもっているように見えました。生活様式や言葉の面ではアメリカ人らしかったのですが。
この違いは、陸軍入隊後、合衆国本土から来た日系二世に会って、よりはっきりと感じました。それは無理からぬことであったと思います。彼らはいろいろな面において社会から分離され、抑圧されていました。ハワイはより開かれた社会で、それゆえに私たちは自分たちの意見をより自由に表現できると感じていたのです。

■入隊、そして日本へ。

  1944年1月3日に入隊し、合衆国本土で訓練を受け、その後しばらく軍の語学学校で日本語の訓練を受けましたが、英語を教えたこともありました。当時、アメリカ政府は、英語よりも日本語に長けていた何人かの「帰米**」を採用していたのです。二世の多くは、一般的には日本語能力が十分でなく、その中で帰米は貴重な存在でした。私の仕事は、彼らが通訳や翻訳を行う際、英語での文法や言葉のニュアンスを教えることでした。
将校に昇進するにあたっては、ジョージア州フォート・ベニング歩兵学校での90日間の厳しい訓練も命じられました。私がフォート・ベニングを卒業したのは1945年8月7日。10月半ばにマニラに到着し、11月初めに沖縄を経由して東京の厚木に向かい、そして大阪での任務につきました。
任務は、郵便物の検閲でした。当初はただ検閲を行っていましたが、次第に、米国の占領を日本の世論がどのように受け入れているか、問題は何か、を把握することに力を入れるようになりました。

■忘れられない光景

 私は、マニラで廃墟を見ました。マニラ収容所で元日本兵の捕虜と話をし、沖縄に到着したときには沖縄の廃墟を見ました。東京に着陸するときには、私たちのパイロットは、飛行場を見つけられないのではと思うほど何回も上空を旋回していました。
東京では、日比谷公園近くのビルに滞在しました。空腹をかかえて同僚とともに建物を出たとき、警察官を見つけたので「どこに行けば食事が出来るか」と尋ねたところ、警察官は笑って言いました。「なにもかもぶっ飛ばしてくれたのはあんたたちじゃないか。ここには何も残っていない。食べ物はない。」と。状況の深刻さには、ですからすぐに気がつきました。
大阪では、遠い親戚が「出産したばかりの妻が栄養失調で娘に与える母乳が足りない。助けてもらえないか」と頼みに来ました。私は、何週間もの間、缶詰をこの家庭に届けました。私たちの多くが同様のことをしていたと思います。近所の子どもたちにも食べ物を与えました。良いことだったかどうか分かりませんが、たくさんお菓子も与えましたし、労働者に対してもできるだけのことをしようとしました。
クリスマスに日本の俳優や歌手、宝塚歌劇団などを招いて軍のためにショーを開催したとき、出演者へのお礼としてサンドウィッチやコーヒーなどを用意したことがありました。ですが、彼女たちはむしろ家族に食べ物を持ち帰りたかったのです。振袖の中に砂糖を流し込む女性もいました。私は間違った対応をしたことに気づき、すぐに米や缶詰、砂糖などが持ち帰れるように手配しました。着飾った、礼儀正しい女性たちが、着物の袖に砂糖を流し入れる光景は、いまでも忘れることができません。

■日米の懸け橋として

     
   
  1946年4月。高知県の親戚を訪ねたときの1枚  

  私は、当時貴重だったコダクロームなどのカラーフィルムを家族に無理を言って手に入れ、大阪の街や、破壊されていなかった京都、嵐山、奈良などの写真を沢山撮りました。東京でも、歌舞伎座近くの混雑した交差点でアメリカ人憲兵と日本人警官が一緒に交通整理をしている様子や、銀座でこまごまとした物を売る出店の様子などを撮影していました。
1946年春、四国の親戚を訪れました。彼らは私の訪問に驚き、私がアメリカ軍の兵士であることにもさらに驚いていました。「アメリカ軍に信用されているのか」と聞かれ、終戦後まもない頃、重要文書をカリフォルニアから、マッカーサーのいるマニラの本部に届けるよう命じられた話をすると、信じられない様子でした。
私たち二世の背景について知った後は、出会った人々の多くは私たちを受け入れてくれていたと思います。でも、とくに列車に乗ったとき、日本人男性が私たちの存在を不快に感じていると気づくこともありました。私たちには豊富な食料などがあり、日本人には何もなかったのですから。
私たち、二世の多くが日本語を話せたことは、単純に言ってしまえば、アメリカ軍と日本人との関係を和らげることにつながったと思います。多くの二世には日本に親戚や友達がおり、ですから、占領下の日本人を助けることに力を尽くしました。日米の懸け橋になろうとしていたのです。
私がいま知りたいのは、当時、アメリカ兵、特に二世兵士に対して日本人はどのように感じていたのか、ということです。彼らの多くはすでに80〜90歳代。存命のうちに聞き取り調査をしたいものだと思います。これは記録する価値があると思います。

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リチャード・H・コサキ 

 1924年9月14日、ワイキキ生まれ。両親がともに高知県の出身のハワイ移民。地元マッキンリー高校在学中に真珠湾攻撃に遭遇。1943年、ハワイ大学在学中に米軍に志願し、44年に入隊。45年、MIS(Military Intelligence Service=陸軍情報部)としてアメリカ占領下の日本に約1年間滞在。その期間に、戦後間もない日本の風景を撮影した。46年12月に除隊。48年にハワイ大学を卒業後、ミネソタ大学で修士号と博士号を取得。ハワイに戻り、1952年より1985年まで、ハワイ大学政治学部で教鞭を取る。ハワイ大学コミュニティー・カレジズ副学長、ハワイ大学ウエスト・オアフ校学長などを歴任。


* ノーノー・ボーイ:強制収容された日本人移民・日系人に対して実施された、「米軍へ志願する意思はあるか」「米国への忠誠を誓うか」の質問に、両方とも「NO」と答えた者のこと。
** 帰米:アメリカ生まれだが、日本の教育を受けるために一時期日本に滞在し、その後アメリカに戻った二世のこと。

 

 

 
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