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16号(2009年Summer)巻頭インタビュー 日本画家北條楽只さん

 


海外移住資料館・特別展示
横浜開港150周年記念
「ハワイ日系人歴史絵巻」展
今日の平和が、日系人の多大なる犠牲のうえに成り立っていることを知って欲しい

 海外移住資料館では7月10日〜26日まで、横浜市出身の日本画家、北條楽只さんが、1994年より約14年の歳月をかけて完成させた「ハワイ日系人歴史絵巻」を展示します。ハワイに移住した日本人や日系人の歴史を描いた絵巻物は全34巻。すべてをつなげると、その長さは620メートルにもなり、ひとりの画家が描き上げた絵としては世界最長だと言われています。横浜港からはじまった日本人ハワイ移住の歴史が、私たちに今、何を語りかけるのか。
作者の北條さんにお話しをうかがいました。

「帰るに帰れなかった」一世たち

サトウキビ畑で働く「元年者」移民

サトウキビ畑で働く「元年者」の移民
ハワイには、1885年に日本政府が送り出した「官約移民より前の1868年に、政府の許可を得ずに海を渡った日本人がすでにサトウキビ畑で働いていた。

 ハワイを初めて訪れたのは23歳のとき。もう40年近く前になるど、そのころは90歳を超えるような一世がまだご存命で、養老院のようなところで暮らしておられた。一世の多くはサトウキビ畑の労働者としてハワイに行き、永住するつもりはなかったけれど、帰るに帰れないまま年が経ち、年を取るほど日本に対する想いを強くしているようでした。だけど、生活が精一杯で故郷に錦を飾るのは難しい。そんな一世たちがたくさんいたんです。なるほど、ハワイには日系人の成功者ももちろんいるけれど、それは決して大多数ではない。多くはサトウキビ畑の労働者として働き、ハワイの土になっていくのだという話を聞かされました。

簡単な気持ちで描き始めたけれど・・

 30代になって、仕事の余暇に日本画を習い始めました。自分なりの絵が描けるようになってきた頃、また仕事でハワイに行き、より深くハワイを知りました。
その後、ハワイのカラカウア国王が明治14年に横浜に来たときの様子を描いて、お世話になった日系人連合協会に寄贈したんですよ。すると、当時の会長さんがとても喜んでくれて、「ハワイ移民の歴史を描いてくれないか」と言う。簡単な気持ちで引き受けたのがこの歴史絵巻の始まりです。
当時の私は、せいぜい真珠湾攻撃があったことくらいは知っていたけれど、まぁ50メートルも描けば完成するだろうと、タカをくくっていたんです。でも、描き始めると、いろいろな事を知り、移民の苦しみなんかもわかってくる。途中で手を抜くわけにはいかなくなりました。
一番苦労したのが歴史考証。髪型ひとつにしても今とは違うし、当時の乗り物や建物、アロハシャツをはじめとする服装はどうだったかとか、そういった資料を調べることに相当な時間がかかりました。620メートルの中には、12万人近い人物が描かれています。

1914年7月、東京大相撲一行がハワイで興業。ハワイ中の日本人移住者が相撲見物のために耕地から臨時列車に乗って会場に向かった。7月11日から17日までの6日間、ホノルル市の運動公園で行われた相撲興行は、横綱太刀山の土俵入りで観衆を沸かせた。 


アロハシャツ

アロハシャツは、日本人が日本から持ち込んだ和服や風呂敷などをほどいて、子どもや自分の服などに仕立てたシャツが広がっていったのが起源だと言われている。         

 

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ハワイの歴史=日系人の歴史

真珠湾攻撃

1941年12月7日、日本海軍はハワイを攻撃。航空母艦6隻から飛び立った攻撃機183機は、カフク岬からハレイワを経て7時55分に真珠湾に到着。奇襲作戦は成功し、太平洋戦争が始まった。     

 ハワイを知れば、あれもこれも、実は日本人の仕事だったなんていう話がたくさんある。農業や漁業がいい例で、トマトやピーマン、きゅうり、ナスなど野菜の多くは日本人が種や苗を持ち込んで定着させているし、沿岸の浅瀬に網を入れて小さな魚なんかを捕っていた当時のハワイに、漁船を使った漁のやり方を教えたのも日本人。ワイキキビーチに立ち並ぶホテルに水を供給するための水路も、実は日本人が掘った水脈を利用しています。
日本人は表舞台で活動をすることは得意じゃなかったけれど、裏方では地道な貢献をたくさんした。それがいまのハワイの基盤になっているんです。ハワイに渡った日本人、日系人の歴史がなければいまのハワイはないといっても言い過ぎではありません。
また、絵巻物には戦争の場面がたくさん登場します。日中戦争が始まって太平洋戦争、有名な2世部隊、朝鮮戦争、ベトナム戦争など。そこでは、多くの若い日系人が犠牲になりました。とてつもなく大きな犠牲を払った日系人がいたからこそ、ハワイの平和がある。そして、ハワイの犠牲の上に成り立つアメリカ合衆国の平和を、私たち日本人も享受している。描き進めるうちに、その事実をなんとか残したい、日系人の歴史を通じた反戦・平和と鎮魂のメッセージ伝えたいと思うようになりました。

ハワイの本当の姿を知って欲しい

 絵ひとつひとつは大したことないかもしれない。でも、すべてのシーンに魂を込めて描きました。たとえば、戦争に志願する日系人の若者のシーン。志願して、身体検査を受けて、パスすると船に乗って本土へ渡って、行進して戦地に赴く。でも、その若者たちの3割が負傷して、3割が戦死して、ハワイに帰って来ることができたのはほんのわずかですよ。それを分かっていながら描くことが辛くて、なかなか進めないこともありました。でも、描かないわけにはいかない。苦しかったですよ。
日本人にとって、ハワイは身近なリゾート地です。ワイキキビーチで泳いで、ショッピングをして、美味しい物を食べて、それもいいかもしれない。でも日本人ならもっと深いハワイ、特に日系人の歴史、苦労の歴史を知ってこそハワイを訪れるべきだと思います。ハワイの日系人たちの多大なる犠牲のおかげでいまの平和なハワイがあるということを、ぜひ若い人たちにも知ってもらいたいですね。

ホクレア号

2007年1月、星や風、波をたよりにした伝統的な航海術によって針路をとるハワイの古代船「ホクレア号」がハワイを出港。各地の港を経由し、6月9日に最後の寄港地である横浜に到着した。ハワイ移民を送り出した横浜の港では、大勢の関係者が出迎えた。      

北條楽只(ほうじょう らくし)
 

  日本画家。1941年横浜生まれ。大学を卒業後、映画制作会社、フリーの映像カメラマンを経て、地元横浜のテレビ局に入社。退職までの30年間、番組制作に携わる。30代で日本画を始め、画仙人と呼ばれた小松均氏に師事。定年後は山梨県へ移住し、特産品の和紙を使った絵画の制作を続けている。

 
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