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第15号(2009年Spring)資料探検隊 Vol.15
モルフィーちゃん
南米に住む青い蝶の妖精、モルフィーちゃん。 海外移住資料館のあれこれを、みなさんと一緒にお勉強します。 どうぞよろしくね!!
1942年5月3日に発表された、アメリカ西海岸一帯の日本人とその家族への強制立ち退き命令(常設展示)
 
 

戦争と移住者〜1942年・アメリカ〜

 移住者にとって、母国と移住先国という2つの国は、どちらとも大切なものに違いありません。
その2つの国が、戦争により敵対関係になってしまったとき、移住者たちの運命はどのように翻弄されていったのでしょうか。
今回は、北米に移住した日本人とその子孫が、戦争によってどんな生活を強いられ、その時代をどのように生きぬいてきたのかを振り返ってみましょう。

日米開戦と強制立ち退き命令

収容所に輸送される日系人。
胸には番号札が下げられている。(常設展示)

 1941年12月、日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃し、日本とアメリカとの戦争がはじまります。当時、アメリカにはすでにたくさんの日本人が移住していましたが、開戦をきっかけに彼らは「敵性外国人」となりました。そして、1942年に発表された日本人とその家族に対する強制立退き命令により、実に11万人もの日本人移住者が、住んでいた土地からの立退きを命じられたのです。そのなかには、市民権を持つ2世も数多く存在し、アメリカ国民でありながら、日系人であるというだけで受けた不当な扱いに、多くの人が戸惑いました。
1942年5月3日に発表されたアメリカ西海岸の日本人・日系人に対する強制立退き命令を見てみると、告知からたった6日の間に、資産を整理し、わずかな手荷物だけを持って、それまで住んでいた家を突如離れなければならなくなった日本人移住者たちの状況が伝わってきます。 


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カルフォルニア州やアリゾナ州、ワイオミング州などの砂漠地帯や人里から離れた荒地につくられた収容所は全米で10カ所。なかには、建設が間に合わず、競馬場の厩舎が仮収容所として使われたところもあったんですって。

収容所での生活

収容所への移動や収容所ないでの生活の様子が写された写真集
※この写真集は図書資料室(海外移住)で閲覧できます。

  まず、アッセンブリーセンターとよばれる仮の集合場所へ集められた移住者とその家族は、その後、ひとりひとりが番号で登録され、各地の収容所へと振り分けられました。
急ピッチで建設された収容所の多くは、隣室との壁がなかったり、隙間だらけだったりといった粗野なもの。冬は氷点下、夏は猛暑で乾燥した砂漠地帯の収容所では、厳しい気候にも耐えなければなりませんでした。家具もなく、支給された木材を使って机やイス、タンス等を自分たちで作りました。また、土地を耕し、野菜や家畜を育てたりもしました。

収容所内では、働いて収入を得ることができたため、多くは、食堂のコックや皿洗い、給仕などの仕事をしました。収容所によっては、軍事用のカモフラージュ・ネットや軍艦模型、海軍用のシルクスクリーン・ポスターの製作などにも従事しました。こうした作業に対する月給は、各部の長が19ドル、熟練者が16ドル、未熟練者は12ドルと決められていました。所内で働く医者や歯科医師も、わずか19ドルが最高額の収入だったといいます。
それでも収容所内では、3度の食事が支給され、学校、郵便局、警察、消防署、美容院、レクリエーション施設、商店などが整備されるなど、最低限の生活は保障されていました。とはいえ、いつ終わるとも知れない戦争の最中、フェンスで囲まれ、常に軍の監視下におかれ、行動を制限された暮らしが続いたのです。

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当時、アメリカ陸軍兵士の一般的な月収がおよそ21ドル。収容所内の報酬はそれを上回らないようにと設定されたそうよ。後に兵士の平均月収が50ドルになっても、収容者が受け取る報酬額が変わることはなかったんですって。

アメリカ人として育った2世の苦闘

カナダでポートランドの玩具店で売られていた第442連隊のフィギュア。日系人部隊の 勇敢な戦いぶりがいまも語り継がれている ことがうかがえる (所蔵資料)

第24部隊に所属していた日系人兵士が受けた徽章の数々

自由の女神の松明をかたどった第442部隊の徽章

何よりも、強制収容はアメリカで生まれ、アメリカ人として育ってきた2世たちの心を傷つけました。祖国日本を思う1世と、アメリカへの忠誠を誓う2世との間に、大きな心の隔たりと葛藤が生じたことは想像に難くありません。
そんななか、アメリカへの忠誠を示すために、アメリカ軍に志願する日系人もいました。第100大隊や第442連隊と呼ばれる部隊は、日系人による部隊です。特に第442部隊は、「Go for Broke!(当たって砕けろ!)」をモットーに、短期間に実に多くの犠牲を出しながらもイタリア戦線で活躍しました。人種差別による矛盾や葛藤のなかで戦った彼らは、アメリカ社会の認識をも変えていったのです。

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勝ちとった名誉


1988年、戦時下の強制収容に対する謝罪と補償を認めた「市民の自由法(日系アメリカ人補償法)」にサインするロナルド・レーガン大統領(当時)
(常設展示)

  1945年、日本政府がポツダム宣言を受け入れ、第2次世界大戦は終戦を迎えます。数年間におよぶ収容所での生活から解放されたものの、仕事も家も財産も、そのほとんどを失った日本人移民たちが、元通りの生活を送れるようになるまでには長い年月が必要でした。
その後、日系人自らが、戦時中の強制収容に対する謝罪と補償を求めた運動がついに実を結びます。1988年、アメリカ合衆国政府が「歴史的な過ち」を認め謝罪、補償する法律が制定されると、収容された移住者とその家族に対して、謝罪とひとり2万ドルの補償金が支払われました。

いまや、戦争を知らない3世・4世の若者たちが活躍する時代。
新世代の若者たちは、受け継いだ「日系」というアイデンティティを誇りに、各方面で活躍しているのね!

 

 
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