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HOME > 海外移住資料館だより > 第12号 資料探検隊 Vol.12
第12号(2008年6月)資料探検隊 Vol.12
モルフィーちゃん
南米に住む青い蝶の妖精、モルフィーちゃん。 海外移住資料館のあれこれを、みなさんと一緒にお勉強します。 どうぞよろしくね!!

 

祝!ブラジル日本人移住100周年
  ジャポネース・ガランチード!
  〜日本人という名の信頼を築き上げた移住者たち〜

 ブラジルで、日本人・日系人を表す言葉として、「ジャポネース・ガランチード」という表現があるのをご存知ですか?そのまま訳すと、「保証つきの日本人」。約束を必ず守り、責任を持って仕事を果たす。コツコツとマジメに働いてきた日本人移住者が積み上げてきた信用が、「日本人、日系人なら間違いはない」という絶大な評価としてこの言葉に込められているのです。
  言葉も文化も生活習慣もまったく異なる南米の地ブラジルで、遠いアジアの小さな国からやってきた日本人移住者たちは、どのように現地の人々に受け入れられ、信頼を勝ち得ていったのでしょうか。

ポスター

ブラジル雑誌「veja」に掲載された車の広告。車の信頼性を象徴するかのように、                  「Garantido(ガランチード)」の言葉とともに日系人の野菜売りが登場している。(資料館所蔵)

はじめての日本人

 日本人集団移住者781名を乗せた第1回移民船「笠戸丸」がブラジルのサントス港に着いたのは、いまから100年前の6月18日のこと。コーヒー農園での労働力が不足していたブラジルと、排日運動によって北米へ新たな移住者を送り出すことが難しくなっていた日本との利害関係が一致したことではじまった日本人のブラジル移住により、ブラジルへは、その後第2次世界大戦を挟む100年の間に26万人もの日本人が移り住み、世界最大の日系社会が形成されました。
  ブラジルの人々にとって、遠い異文化の国からやってきた日本人移住者は、一体どのように映ったのでしょうか?笠戸丸移民の到着を伝える当時のブラジルの新聞『コレイオ・パウリスターノ』紙(1908年6月25日付)には、日本人移住者の様子がこう記されています。
  「移民は19日船より上陸し、同日サンパウロに到着せり。其の船室及び其の他の設備を見るに、皆相当の清潔を保ち居り(中略)。移民収容所に入るに当たり彼らは整然とし列車より下り少しも混雑せず、其の車中を検するに一点の吐唾の痕なく、又果物の皮等の散乱せるもの一もなかりき。(中略)壱時間ほど食堂にありし後、彼らは自己の室及び寝台を見んがために出て行きたり。然るに驚くべし、彼らの去りし後には、一つの煙草の吸殻又は一つの吐唾もあらざりき。」(「ブラジル日本人移住80周年史」より抜粋)

 ブラジル人の新聞記者は、52日間の航海を終えた笠戸丸の船内がおどろくほど清潔だったことや、日本人の行儀のよさにとてもおどろいているわ。これは、後に日本人がブラジルで得る評価や信頼の、第一歩だったのかもしれないわね!
モルフィーちゃん
笠戸丸
サントス港に接岸した移民船笠戸丸(資料館所蔵)

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重労働、挫折…それでも必死に生きてきた

コーヒー農園

コーヒー農園で働く移住者たち
(資料館所蔵)

 好印象を持ってブラジルに迎えられた移住者たちですが、新天地に抱いていた夢や希望とは裏腹に、入植地では厳しい現実を目の当たりにすることとなりました。
  移住者を待ち受けていたのは、慣れない気候風土での重労働や予想外に低い賃金、自然災害など数々の困難でした。入植地で手に入る食材といえば、フェイジョン(ブラジルの豆)や干した鱈、干肉、塩漬けの鰯などだけで、野菜はほとんどなく、移住者たちは食べられそうな野草を採っておひたしにして食べたといいます。栄養不足と過労とで弱った身体は簡単に風土病に冒され、命を落とす者も少なくありませんでした。

住居

コロノ小屋とも呼ばれる契約労働者のための住居。 家具も
トイレも ないのが普通だった(提供:ブラジル日本移民史料館)


 しかし、現実を嘆き、後悔してもどうすることもできません。なぜなら、移住者の多くは、日本で財産をかき集め、ときには借金までして一大決心で日本を離れたのです。ブラジルで働き、十分なお金を貯めて日本に帰ることを目標としていたのですから、日本に引き返すお金など持ち合わせていない人がほとんどでした。なかには、ブラジルでの生活に見切りを付け、隣国アルゼンチンなどへ転住した人たちもいましたが、多くはブラジルに留まり、過酷な労働に耐えながら必死に生きるしかなかったのです。

 

移住者一世が語る・入植時の生活

大戸さん  
証言英像の大戸さん(常設展示より)

「慣れないところへ来て、それこそ塩汁を吸って味噌もないんだからそういう苦労をしてきて、それで親たちがすぐに学校を建て、あるいは病院を建て、そうした苦労をしてくださったのをいま振り返ってみますと本当によくやってくれたと・・・」(大戸さんコメント)


 資料館の常設展示場では、1927年、3歳のときに家族とともにブラジルに移住した一世の大戸甲子雄さんが、入植当時のことを振り返る証言映像を見ることができます。
 両親と兄弟姉妹6人でブラジルの第2アリアンサ移住地に入植した大戸さん一家。家族に割り当てられた土地で1年間必死に畑作りに励みましたが、収穫はほとんどありませんでした。「今思えばその土地は、雑草も育たないような砂地だった」と大戸さんは言います。仕方なく土地を移り、再びゼロからコーヒーや米、トウモロコシを作りますが、こんどはせっかく育てた作物が、すべて赤アリの被害にあってしまいます。幼かった大戸さんも、物心つく頃から毎日兄たちと一緒に畑に出て、アリ退治を手伝いました。


 初期に入植した移住者たちはみな、大戸さん一家と似たような苦い経験をしているわ。それでも幼い子どもたちのために、両親たちは必死に働き、地域に学校を作り、子どもたちの教育を何よりも優先したのよ
モルフィーちゃん
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日系人は信用できる

綿花栽培(資料館所蔵)
露店の野菜売り(資料館所蔵)
綿花と市場 露天とタクシー

クリチバ市公共市場の日本食材店
(提供:chuniti kawamura)

タクシー運転手
(提供:chuniti kawamura)

さまざまな分野で、小さな信頼の積み重ねが
「ジャポーネ・ガランチード」を築き上げた。

 移住初期、コーヒー農園での契約労働が主だった移住者たちの生活ですが、その後、土地を購入して独立自営農をはじめたり、町へ出て、野菜の仲買いや、市場の露天商、雑貨屋、食堂や旅館、製造業などの商売をはじめたりと、さまざまな形でブラジル社会に定着していきます。
  日本人移住者が栽培した野菜や果物は評判になり、部品製造や修理の分野では、仕事の細かさや仕上げの丁寧さ、速さが、小売り業では接客サービスの姿勢や、釣り銭をごまかしたりしない誠実さが、ブラジル社会で徐々に日本人・日系人としての評判を高めていくこととなりました。こうして、ブラジル社会のよき隣人となっていった日本人が、「ジャポネース・ガランチード」を広めていったのです。
  また、一世が子どもたちの教育を何より重視してきたおかげで、二世三世の多くは高学歴で優秀な成績を修め、いまや日系人の医者や弁護士などが数多く誕生してブラジル社会で活躍しています。現在、ブラジル空軍の最高司令官は日系2世の斉藤準一さん(1942年、サンパウロ州生まれ)ですが、軍隊という組織の長に日系人がつくことは、その信頼の何よりの表れであるといえるでしょう。
  「日本人(日系人)は信用できる」---ブラジルで当たり前のように受け入れられているこの感覚は、 この100年の間に日本人移住者が辿ってきた苦労の歴史のたまものであり、日系人が日本人としての誇りを失わず、その伝統や日本人らしさを、ブラジル社会の中で子孫へと伝えてきたことの証なのです。

斎藤純一さん

日系人として軍人の最高位に登りつめた ブラジル空軍最高司令官の斎藤純一さん

 サンパウロ大学法学部で教える一世の二宮正人教授によると、ブラジル全人口のうち、日系人の占める割合はわずか1%。でも、ブラジル一の難関校であるサンパウロ大学では学生の15%が日系人なんですって!
 
 
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