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第12号(2008年6月)巻頭インタビュー ラモス瑠偉さん
ラモス瑠偉さん

ブラジル生まれ、心の底から日本人。
「僕を育ててくれた日本のために
             できることを…」

 1977年、19歳で来日し、当時の日本リーグで活躍。Jリーグ設立前より、常に日本サッカーを牽引してきたラモス瑠偉さん。1989年に日本に帰化し、90年のアジア大会、94年のW杯予選で日本代表として戦ったその勇姿は、当時を知る誰しもの記憶に、今も鮮明に焼き付いていることでしょう。
  ブラジルで生まれ、日本人となり、誰よりも日本を愛するラモスさんに、サッカーのこと、異文化との付き合い方などについて伺いました。

日本へー母親の生活を楽にしてあげたかった

 サンパウロにはたくさん日系人がいるけれど、僕が生まれ育ったリオデジャネイロ州にはそれほど多くない。高校生のころ、クラスに2〜3人いたのが日系人との初めての接点だったんじゃないかな。ブラジルはいろんな国の移民が集まった国だから、日系人だからって特別な感情を持ったことはないですね。「遠いところからはるばるブラジルまで来た人たち」と思っていたくらいで。地球の反対側、しかも気候も文化も習慣も正反対のところからブラジルの労働力になるために来てくれたなんて、すごいことだなと。
  日本に来たのは、当時すでに日本でプレーしていたジョージ与那城(サンパウロ州出身の2世。72年?85年まで読売クラブ)に誘ってもらったことがきっかけ。当時、ジョージの両親が近所に住んでいて、ブラジルに帰国していたジョージに「日本で一緒にやらないか」って声をかけてもらった。ありがたい誘いでしたね。早くに父を亡くしてうちは貧しかったし、母の生活を楽にしてあげたかった。そのためには日本に行くしかないと思いました。

苦労だなんて思ったことはない

  日本に来て、人が多いとか、日本人はマジメだとか、歩くのが速くてせっかちなところもあるな、とか・・・そんなことは感じたけれど、だからといって特に苦労したという意識はない。みんな「日本で苦労したこと」を聞きたがるけど、日本とブラジル、違って当然だし、僕は人の家に入ってきたのだから、そこのやり方に従うのは当然。努力したことといえば、言葉を一日も早く覚えて、コミュニケーションを取ることくらい。
  ただ、日本社会にはどうしても「本音と建て前」があるから、そこだけは慣れるのに苦労したかもしれない。でも、いつも「ここは日本だ」「日本で成功したいなら一日も早く日本の社会に自分が慣れなくちゃ」と思って生きてきたし、そのためには自分を殺すことがあったって仕方ない。
 幸い、僕にはマツキ(サッカー解説者の松木安太郎氏。ラモスさんとは読売クラブ時代からの仲)という素晴らしい理解者が居てくれたことも大きかった。彼も若いときに海外に出て、いろいろ苦労したから、同じ経験をさせないようにと彼がポルトガル語を勉強して、面倒を見てくれたんです。

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日の丸を背負って闘いたかった

 日本に帰化することを決めた最大の理由は家族のため、子どものため。もともと日本に骨を埋めるつもりでブラジルを離れたし、日本で結婚して子どもが産まれ、家族に対する責任が生まれました。読売クラブを愛していたから、自分が帰化して外国人枠がとれれば、もっとクラブが強くなれるとも考えました。
  夢として、ブラジルでプロとしてプレーしてみたいと思ったこともあります。でも、妻のこと、家族のことを考えたらできなかった。妻は一人娘だから、彼女の両親のこともありました。何より、日本に来て、本当に日本が、日本人が大好きになったしね。
  日本代表として選ばれたとき、代表のユニフォームに日の丸を入れようと言い出したのは、国を代表して闘うという気持ちを大切にしたかったから。以前、森(孝慈)監督や木村和司の時代、ジョージ与那城も帰化してプレーしていたあのチームが僕は大好きで、ユニフォームの日の丸は憧れだった。だけど、後に日の丸がユニフォームから外されてしまった。日本で家族をもって、帰化して、日本に対する愛国心は当然大きく強くなっていったけれど、代表に選ばれない分際で代表ユニフォームのことを外から意見することはできない。代表に選ばれたときは、いまがサッカー協会に訴えるチャンスだと思いました。
 日本代表の一員になって、選ばれた他の選手たちがなんだか軽い気持ちでプレーしているように見えたことも不満でした。愛国心もなくて、なんのために「日本代表」として闘っているのかなって。このままじゃダメだ。勝てるわけがないと思いましたね。「俺たちはプロだ」という意識で、日本人としてのプライドをもって闘わないと。それがない選手は日本代表に選ばれてほしくなかった。
  自分ひとりの力ではムリだと思ったけれど、カズや柱谷、オフト監督たちが理解して力になってくれました。あのとき諦めていたら、きっといつまでも実現できなかった。だけど、せっかく日本代表に選ばれてプレーするんだから、やっぱり誇りをもって、日の丸を背負って闘いたかった。国を背負うこと、自分の国を誇りに思うことを恥ずかしがっていちゃダメなんです。

日本とブラジルの特別なつながり

 今年は日本人がブラジルに移住して100年だけど、ブラジル政府も日本政府も、移住者をもっと大事にするべき。遠い外国に行って、一生懸命働いて、経済的な貢献もすごく大きい。そういうことをもっと評価するべきじゃないか。
  一方で、日本にたくさんいるブラジル人のなかには、マジメにがんばっている人もたくさんいるけれど、ブラジル人だけのコミュニティを作って日本に馴染もうとしていない人も目立ちます。日本の文句ばかり言って、日本のやり方に自分を合わせようとする努力をしていない人たちを見ると頭にくる。文句があるならブラジルに帰れと言いたいですね。
  僕自身、差別や偏見も受けてきました。でも、僕にはサッカーがあった。必死になって、認められて、そうしたらいろんなところで自分の考えをちゃんと言えるようになった。誰に嫌われたって関係ないと思っているから、いつだって言いたいことを言う。でも、どこが限度かを探りながら、それを超えないようにしているつもりです。
  日本の社会には日本のやり方がある。だから僕は、日本人、日本社会に日本で暮らすブラジル人の気持をわかってもらいたいとは思いません。日本で暮らすことを選んだなら、それは彼ら自身が自分たちの力でなんとかしていかなくてはいけない問題だと思うから。
  ブラジルには、日本人は信頼できる、尊敬できる、100%の仕事をするのが日本人だという評価が定着しています。それは、100年も前にブラジルに渡った日本人が、ひたすら真面目に働いたから。ブラジル人はみんな、日本人が好きですよ。日本人と組めばうまくいく、信用できる、そういう気持ちはブラジル人のなかに間違いなくある。日本とブラジルのつながりは特別で、それはやっぱり移住者のおかげなんです。

日本のためにぼくができること。

 僕は、日本に、読売クラブにチャンスを与えてもらった。だから、そのお返しをしなくちゃいけないと思って生きてきました。足が痛くたって注射打って試合に出て、死ぬ気で闘う。代表に選ばれたなら、日本という国を背負って闘う。僕が日本に恩返しができるのはピッチの上だけだから。
 今年3月、縁があってブラジル料理のレストランを青山にオープンしたけれど、やっぱり自分がすべき一番のことはサッカーのこと。でも、この店が成功したら他のところにも出して、日本人が食べたことのないおいしいブラジル料理をたくさんの日本人に食べさせてあげたい。ブラジル文化を紹介したいとか、そんなことじゃなくて、日本に、日本人にお返しがしたい、貢献したいんです。

「Restaurante Carioca by R.Ramos」
2008年3月に東京・青山にオープンした
ブラジル料理店
「Restaurante Carioca by R.Ramos」

サッカーを教えることを通じて、子どもたちの育成にも関わっていきたい。サッカーのイベントに出たり、施設や小児科病棟を訪れたり、日本のためにできることがまだまだたくさんある。
僕を育ててくれたのは日本。いまの自分があるのも日本のおかげです。僕は日本に来て日本人になった。だから、日本のサッカーのために、子どもたちのために、僕ができることをやるだけです。


ラモス瑠偉(らもす・るい)
 元サッカー日本代表

 1957年生まれ。ブラジル・リオデジャネイロ州出身。77年に来日し、読売クラブ(現東京ヴェルディ1969)に入団。89年に日本に帰化。93年のJリーグ開幕以前から日本サッカーを牽引してきた。90年のアジア大会、94年のW杯予選に日本代表として出場。98年に現役引退後は、解説者を経て、沖縄かりゆしFCのテクニカルアドバイザー、柏レイソルコーチ、東京ヴェルディ1969監督等を歴任。

 
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