海外移住資料館
新着情報
概要
常設展示
企画展・催し物
学習プログラム
利用案内・交通案内
図書資料室(海外移住)
ボランティア活動
海外移住資料館だより
移住資料ネットワーク化プロジェクト
キッズコーナー

情報検索システム
キッズコーナー貸出教材 いみんトランク 貸出についてはこちら
企画展『海を渡った花嫁物語』特別サイト 特別展示 移民の暮らし
特別展示 ハワイに生きる日系人

独立行政法人 国際協力機構 JICA横浜


 

HOME > 海外移住資料館だより > 第11号 資料探検隊 Vol.11
第11号(2008年3月)資料探検隊 Vol.11
モルフィーちゃん
南米に住む青い蝶の妖精、モルフィーちゃん。 海外移住資料館のあれこれを、みなさんと一緒にお勉強します。 どうぞよろしくね!!

ぶらじる丸

夢と希望を運んだ船
  〜移民船での暮らし〜

 いまや海外旅行といえば飛行機があたりまえ。だけど、ほんの数十年前まで、日本から海外への渡航手段は船でした。資料館のあるここ横浜の港からも、たくさんの移住者が移民船に乗って海外へと旅立ったのです。
  日本人が集団移住した南米へは、飛行機でもおよそ24時間の長旅です。それが船ともなると、当時の大型客船でもおよそ40〜50日間をかけての大移動でした。
  何十日にもおよぶ船上の旅で、移住者たちはどんな生活を送っていたのでしょう・・・戦後の移民船を写したスナップ写真から、当時の船内生活をのぞいてみましょう。


移民船航路図
移民船航路図

「2度と会えないかもしれない…」たくさんの別れを見届けてきた移民船

  甲板から投げられた無数の紙テープが、旅立つ移住者と見送る家族や友人たちの手にしっかりと握られています。船出を告げる汽笛が鳴り響くと、船は大きな船体をゆっくりゆっくりと動かして、いよいよ出港です。力強く応援のエールや万歳を叫ぶ人、別れの言葉が涙で声にならない人、船が遠く小さくなってもなお千切れるほどに腕を振り続ける人。移民船が旅立つ港にはいつでも、たくさんの夢や希望とともに、別れの涙がありました。
  海外がいまよりずっと遠かった時代、移住は、日本に残す家族や友人たちとの、一生の別れをも覚悟する一大決心でした。それでも、日本での生活を整理し、念願かなってようやく夢の大地へと旅立つのです。涙を拭いたら新しい世界への第一歩、船内生活の始まりです。

見送る人々とテープ
移住者と見送る人々をつなぐ無数の紙テープ

このページの先頭へ
 
 

自治会の結成、新聞の発行

洗濯・学校

 移住者の多くにとって、船内では3等客室と呼ばれる大部屋に数家族分のベッドが並ぶ部屋が主な生活スペースとなりました。客室は、家族や同郷の移住者たちが同じ部屋になるように配慮されていたといいますが、およそ2カ月もの間、カーテンだけで仕切られた小さなベッドの並ぶ部屋で他人と生活するのですから、プライベートな空間はほとんどないも同然です。ストレスもあったに違いありません。

食堂・居室

 そんななか、船内で移住者たちはまず、船内生活を快適に送るための自治会を組織しました。警備班や風紀班にはじまり、給食班、娯楽班、新聞班、教育班、医療班などなど、それぞれの経歴や得意分野から役割を分担して活動したのです。

 

 また、船内生活に欠かせなかったもののひとつに、船内で発行される新聞がありました。船内新聞には、自治会や船からのお知らせのほか、乗船者たちの投稿によるコラム、川柳などが掲載され、航海期間中ほぼ毎日発行されたといいます。
  当時の新聞を見ると、船内生活ならではの話題が満載です。「船内では水が貴重!水を大切に」といった注意や、お酒を飲んで酔っぱらう血気盛んな男性陣に「大声で歌ったり婦人の前で下品な言葉などを言うのはつつしみましょう」と呼びかけるコラムなどからは、船内での様子をうかがい知ることができます。
  また、次の寄港地に関する通貨や天候などの紹介も、移住者にとってはたいへん貴重な情報でした。 海の上での生活が何日も続けば、代わり映えのしない風景に疲れも出てきたに違いありません。そんな単調な生活に刺激と楽しみをもたらし、これからはじまる移住先での生活に夢を膨らませてくれたものが、船内新聞だったのでしょう。

船内新聞 船内新聞
船内新聞

  出発前の移住者たちは、健康診断や予防接種、語学の勉強のために神戸と横浜にあった移住あっせん所(後に海外移住センター)と呼ばれる施設に入所して移住の準備をしたのよ。長い船内での生活に一日も早く馴染めるように、所内は、船室に似せた大部屋、配管パイプがむき出しになった廊下や大食堂など、船内生活を意識した造りになっていたんですって!
モルフィーちゃん
このページの先頭へ

赤道直下!「赤道祭」が最大のイベント

運動会 赤道祭
運動会(左)、赤道祭(右)など、
船内で行われるイベントは大きな楽しみだった

 船には、家族に連れられて移住する幼い子どもたちもたくさんいました。そんな子どもたちのためには船内学校が開校され、現地の言葉や生活、宗教などについても学ぶことができました。
  もちろん子どもたちだけでなく、大人にとっても、船内で開催される運動会やのど自慢大会、演芸会など、さまざまなプログラムは何よりの楽しみでした。なかでも、移民船での暮らしを経験した誰しもが必ずといっていいほど口にするのが、「赤道祭」の思い出です。北半球から南半球への境目、赤道を通過する日は、必ず船をあげての大パーティが開催されました。赤道通過の日は移住者にとって、忘れられない1日。この日を記念して、「赤道通過証」も発行されました。
 こうした活動を通じて移住者たちは、徐々に「同船者」としての連帯感を得ていきました。そして、これからはじまる新天地での生活を一緒に助け合い、励まし合いながら乗り越えていこうという強い絆が自然に生まれていったのです。

トランク       赤道通過証

 

下船―本当の移住はこれから                                   

サントス港接岸
いよいよサントス港に接岸

 こうして2カ月近くにおよぶ航海を経て南米に到着した移住者たちは、そこからさらにそれぞれの入植地へと列車や船を乗り継いで向かいます。入植した先では、野山を切り拓き、自ら住む家を建て、文字通りの開拓生活を送った人も多く、生活が安定するまでの間は、慣れない気候風土や食生活、言葉の壁に重労働と、厳しい暮らしを経験することとなりました。「入植先での生活の厳しさを考えると、移民船での生活は夢のようだった」と語る初期移住者も、珍しくはありません。

チラシ
下船者用に配られたチラシ
(常設展示)

 そんな苦労を乗り越えて、現在、それぞれの移住先にしっかりと根をはった移住者たちですが、同じ船で移住した仲間たちとは、いまもなお強い絆で結ばれています。現地で発行される邦字新聞には、いまでも時おり「同船者の集い」を呼びかける広告が掲載され、それぞれの地で活躍する仲間たちが集まっては、旧交を温めています。
 その後の移住人生に比べたら、ほんの数十日間を共にしたに過ぎない関係かもしれません。しかし、「同船者」という絆で結ばれた、同じ夢や志を持った同志たちは、家族や親類のような特別な関係でもあるのです。

 

 1962年にサントス港に到着した「あるぜんちな丸」(第12次航・681名)の同船者有志のみなさんは、インターネット上に「私たちの40年!!あるぜんちな丸同船者寄稿集」(http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/index.php)というサイトを立ち上げて、当時の仲間たちとの連絡を取り合っているんですって。ブラジルで成功した人、日本に帰国した人、志半ばで亡くなった人、さまざまな同船者たちの「その後」を知ることができるこのサイトは、とても興味深いわ!

 

 

「移民」と「移住者」

 戦前、海外へ移住する人々は「移民」と呼ばれていましたが、昭和30年に外務省では、「移民」という呼称をやめ、「移住者」に統一するという通達が出されます。「・・・右は所謂『食いつめ者』の如き印象を与え・・・(後略)」と書かれた通達書の文面からは、当時の世相が伝わってきます。
  この通達以後、「移民船」も「移住船」と呼ばれることがありますが、当資料館では「移民船」という呼称を使用しています。

 

 

 
このページの先頭へ
JICA ロゴ
海外移住資料館ホームページHOME