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HOME > 海外移住資料館だより > 第9号 資料探検隊 Vol.9
第8号(2007年9月)資料探検隊 Vol.9
モルフィーちゃん
南米に住む青い蝶の妖精、モルフィーちゃん。 海外移住資料館のあれこれを、みなさんと一緒にお勉強します。 どうぞよろしくね!!

労働者に起床を告げる鐘
労働者に起床を告げる鐘。移住者は日の出前から働いた(常設展示)

切っても切れない?!
  コーヒーと移住者の深〜い関係

 コーヒーはお好きですか?
 おしゃれな「カフェ」がブームの昨今、いまや街のあちこちにカフェやコーヒーショップ、喫茶店が建ち並び、日本人の生活スタイルにコーヒー文化はすっかり溶け込んでいます。
 コーヒーといえば、世界一の生産国はブラジル。多くの日本人が移住したブラジルには、いまでもたくさんの移住者・日系人が生活し、コーヒー栽培で大成功を収めた人々もいます。
 あなたが何気なく口にしたコーヒーは、ひょっとするとブラジルの日系コーヒー農園で大切に育てられたものかもしれません・・・。
 さぁ、コーヒーに夢を求めた日本人移住者たちの足跡をたどってみましょう。

コーヒーにかけた夢


移住あっせんのポスター
移住あっせんのポスター

 ブラジルへ向けてはじめての日本人集団移住者を乗せた移民船「笠戸丸」が神戸港を出港したのは、1908(明治41)年のこと。このとき移住した人の多くが、大規模コーヒー農園で契約労働者として働く、「コーヒー・コロノ(雇用農)」と呼ばれる人々でした。
  まだまだ貧しかった当時の日本。コーヒーは、一部の特権階級のみが口にすることのできる「超高級嗜好(しこう)品」でした。ブラジルのコーヒー農園で1年間働けば、十分な貯金をして日本に帰ってくることができると期待した人々は、夢を求めてブラジルへと旅立ったのです。

 夢と希望を抱いて渡ったブラジルだけど、コーヒー農園での暮らしは想像していた以上に過酷で、移住者たちは日の出前から日没まで長時間の重労働にひたすら従事しなければならなかったんですって。約束されていたはずの労働賃金がその通り支払われないこともあって、だまされたと感じた移住者たちは深く失望し、農園から逃げ出す人も大勢いたのよ。
モルフィーちゃん
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コーヒー・コロノの厳しい現実


草刈りに使用したエンシャーダ(鍬・くわ)など(常設展示)
草刈りに使用したエンシャーダ(鍬・くわ)など(常設展示)

 夢みていたブラジルでの生活と現実との間で深い挫折を経験した初期の移住者たちですが、そんなことでへこたれてばかりもいられません。貯金をはたいて移民船に乗り込んだ人たちの多くは、日本に帰るお金などあるわけもなく、持ち前のバイタリティを発揮して、その土地でなんとか生きていく道を探るしかなかったのです。
  ブラジルに残った移住者の多くは、借り受けた土地で綿や野菜などを作り、少しずつ貯めたお金でようやく自分たちの土地を得たり、都市に出て商売をはじめたり、着実にブラジルに根を張って成功していくのでした。 
  移住者の生活がだんだん落ち着いてくると、各地で日本人会が組織され、日本語の新聞も発行されるようになりました。子どもたちのために、日本人学校も建設されました。戦前の移住者たちは、想像を絶する苦労を乗り越えて、現在の日系社会の基礎を築き上げたのです。


ペネイラ コーヒー豆の焙煎機
コーヒーの実と葉をふるい分けるためのペネイラ(ふるい)    コーヒー豆の焙煎機。
直火に当てて使用した(収蔵庫)

モニター 農場の除草に使われたエンシャーダ(鍬)や豆の収穫に使われたラステーロ(鋤)などは、ブラジルならではの農機具なのよ。日本にもありそうなものばかりだけれど、その使い方、刃の当て方などが全然違うから、日本人移住者の多くが最初はこれらの道具を使いこなすのに大変苦労したんですって。
  常設展示のコーヒーのコーナーでは、移住者1世が自らこれらの道具の使い方を解説してくれる映像資料を見ることができるわよ!
モルフィーちゃん
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ブラジルのコーヒーを支える日系農園

 ブラジル南西部、首都ブラジリアを中心に、2億ヘクタールもの広大な「セラード」と呼ばれる地域があります。長い間農業には不向きとされてきたこの地域ですが、1979年より日本政府の援助で開発が始まると、戦後ブラジルに渡った単身農業移住者を中心に、多くの日本人移住者が新しい農業技術を駆使してセラード開発に携わるようになります。その結果、かつて「不毛の地」と呼ばれたセラード地域は、現在では大豆を中心とした大穀倉地帯に生まれ変わったのです。
 セラードは、コーヒーの栽培に適した土地としても注目され、ブラジルの中でも最高級のコーヒー豆産地としてその名を知られるようになりました。現在、世界最大の生産量を誇るブラジルのコーヒー豆の約15%が、このセラード地域で生産されているといわれ、その中の日系コーヒー農園と直接契約を結んでコーヒー豆を輸入している日本企業も少なくありません。戦前、コーヒー農園で苦労した初期移民の夢がセラード・コーヒーとして実を結んだといえるかもしれませんね。
 現在、コーヒー豆を輸入している国のうち、日本はアメリカ、ドイツに続いて世界第3位のコーヒー消費国だと言われ、コーヒーは日本人の生活になくてはならない存在になりました。私たちが日々親しむコーヒーですが、その背景を覗けばそこに、日本人移住者が歩んできた長い道のりがあるのです。

日本にコーヒーを広めた男・水野龍と
カフェーパウリスタ

開業当時のカフェーパウリスタ
開業当時のカフェーパウリスタ

 お金持ちの高級嗜好品だったコーヒーを、大衆文化として日本に広めた男がいます。その名は水野龍(りょう)。移民を斡旋する「皇国植民合資社」の社長で、ブラジル政府と交渉し、日本人移民の受け入れを実現させた人物です。第1回の移民船笠戸丸に、移民団の団長として乗り込み、781人の移住者をブラジルに導いたのも彼でした。
  残念ながら初期のブラジル移民は辛い経験をし、必ずしも成功したとはいえませんでしたが、それでもブラジルへの日本人移住の道を開いた水野の功績はブラジル政府から高く評価されました。ブラジル政府は水野の帰国後、毎年大量のコーヒー豆を無償で与え続け、彼は日本にコーヒーを普及することになったのです。

水野龍
水野龍

  コーヒーを普及するために水野がはじめたのが、日本の喫茶店の原点「カフェーパウリスタ」でした。第1号店は1913(大正2)年、東京銀座にオープン。本格的なブラジルのコーヒーが1杯5銭という、庶民にも手の届く価格で提供されたカフェーパウリスタのコーヒーは、多くの人々に愛され、当時の常連客には、北原白秋や宮沢賢治、菊池寛などもいたといいます。1970年に現在の場所に移転し、70年代後半には、日本滞在中のオノ・ヨーコとジョン・レノンがお忍びで通う様子もしばしば目撃されたそうです。
  カフェーパウリスタを全国に広めた後、水野は自らもブラジルへ移住して農業に携わります。第1回笠戸丸がブラジルに上陸した6月18日を「移民の日」として定めるようブラジル政府に働きかけたのも水野の残した業績のひとつ。水野の心は常に、辛い時代を経験した移住者と共にあったのかもしれません。
  およそ100年前に水野によって広められたブラジルのコーヒーは、現在もカフェーパウリスタで味わうことができます。

カフェーパウリスタ銀座本店
東京都中央区銀座8-9
長崎センタービル1階
TEL:03-3572-6160

※写真提供:
日東珈琲株式会社
株式会社カフェーパウリスタ


現在のカフェーパウリスタ銀座本店
 
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