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HOME > 海外移住資料館だより > 第8号 資料探検隊 Vol.8
第8号(2007年7月)資料探検隊 Vol.8
モルフィーちゃん
南米に住む青い蝶の妖精、モルフィーちゃん。 海外移住資料館のあれこれを、みなさんと一緒にお勉強します。 どうぞよろしくね!!

遠くて近い、あこがれのハワイ
  〜日本人のハワイ好きにはワケがある?!〜

6世が誕生したハワイのビッグファミリー
6世が誕生したハワイのビッグファミリー

リゾートの定番、ハワイ。どうして私たち日本人は、こんなにもハワイに親近感を覚えるのでしょうか?それは、ハワイが単なる南の楽園だからではないようです。 ハワイに移住した日本人がたどった歴史を振り返り、ハワイにいまも息づく日系人の心を探りながら、ハワイの魅力を再発見してみましょう。

※写真はすべて常設展示より

なぜハワイには日系人がいっぱいいるの?

ハワイに渡った官約移民の名簿
ハワイに渡った官約移民の名簿

 日本人の海外渡航は、1866年、幕府が鎖国令で禁じていた海外渡航を公認したことにより始まります。幕末から続いていた農村を中心とした経済の行き詰まりは、近代化により身分や土地にしばられていた人々を解放し、都市部は仕事を求める人々であふれました。そんななか、日本とハワイの政府間では「移民協約」にもとづいて、日本人をハワイのサトウキビ畑で働く労働者として3年契約で送るという取り決めが交わされます。その結果、1885年から94年までの10年間に、2万9千人あまりの日本人がハワイへ渡ったのです。これが、「官約移民」と呼ばれる人たちです。
  海外の情報などほとんど手に入らないような時代に、生まれ故郷を離れ、家族や友人に別れを告げて海を渡るには、どれほどの勇気と決断を必要としたことでしょうか。
  官約移民の多くは、広島、山口、熊本、福岡の農村出身者たちでした。彼らは、ハワイに永住することを目的とした「移民」ではなく、数年間働いてお金を稼ぎ、故郷に錦を飾ろうという「出稼ぎ労働者」でした。契約期間を終え、予定通り帰国した人もいましたが、さまざまな事情からそのままハワイにとどまった人たちも多く、彼らは次第にハワイ社会にとけ込み、根を張っていくのです。

 実は、「官約移民」がハワイへ渡るより17年前の1868年(明治元年)に、日本人労働者150人ほどを乗せたイギリスの船が、明治新政府の許可を待たずして無断でハワイへと出港するという出来事があったのよ。パスポートも持たないまま日本人初の集団移民となった彼らは、移住した年号から「元年者」と呼ばれているんですって。
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意外なところにも日本の味が!

石臼
ハワイの火山岩で作られた石臼

 ハワイには、古くから移住したポリネシアンのほかに、欧米やアジア諸国からたくさんの移住者がやってきて、独自のミックス文化を創り上げてきました。日本人移住者がハワイ文化に与えた影響も、決して小さくはありません。
  ハワイの定番メニュー「ミックスプレート」は、白いご飯にキムチや酢豚、お寿司、ソーセージなどが並べられた賑やかなプレートです。これは、サトウキビ畑で働いていた日本人労働者たちが、ほかの国々からやってきた人たちと、お弁当のおかずを分けあったのがその起源だと言われています。
  最近日本でも見かけるようになった「ロコモコ」は、どんぶりご飯の上にハンバーグ、肉汁で作ったグレイビーソースをかけて、目玉焼きをのせた丼メニューですが、実はこれも、日系人が考え出したもの。どんぶりご飯の上におかずを乗せる日本の文化と、ハンバーグに代表される欧米文化がミックスされたこの料理が、今やハワイを代表するローカルフードになっているのです。
  また、スパムと呼ばれる缶詰のソーセージを焼いて、にぎり寿司のようにご飯に乗せた「スパムむすび(にぎり)」も、日本人移住者の影響が色濃く反映されたハワイならではの一品です。「Bento」「Shoyu」「Musubi(おむすび)」など、日本語がそのまま現地語化したものも数多く、いまでも日系人家庭の多くがお正月に行う餅つきなどは、すっかりハワイに定着した風景の一コマとなっています。
  食べ物にまつわる話だけでも、ハワイが日本人の心を魅了するワケがこんなにあるのですね。

ミックスプレート スパムむすび(にぎり)
コリアン・バーベキュー、タコポギ、キムチなどが盛られたミックスプレートの一例   スパムむすび(にぎり)
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世代を超えて伝えられる心

 ハワイに根を下ろした日本人移住者たちは、その土地で家庭を築き、新しい世代が誕生します。移住者たちは、日本の文化や風習を子どもたちに伝え、守ってきました。一世たちが日本から持ち込んだものは、家財道具や衣類だけではなく、日本を誇りに思う心がなにより大きかったかもしれません。
  そんな移住者たちにとって、日本がアメリカの敵国となった戦時中の体験は、どれほど辛く苦しいものだったでしょうか。幸いなことに、ハワイの日系人は、ごく一部の人々を除いては強制収容所に送られたり、財産を没収されたりすることがありませんでしたが、日本人である親世代と、アメリカ人である子ども世代の間に隔たる大きな意識の差を認識させられたのも、戦争によってでした。
  ハワイで生まれ育ち、アメリカ人として祖国に忠誠心を示したいと考えた日系の若者の多くは、自ら進んで志願兵となりました。ハワイの日系人だけで組織された陸軍第100大隊は、後にアメリカ本土の日系人部隊と合流して442連隊となり、歴史に残る活躍をします。彼らの勇敢な戦いぶりはアメリカ人にも深い感銘を与え、日系人が広くアメリカ社会に認められるようになりましたが、同時に、あまりにも多くの尊い命が失われたことは、言うまでもありません。

タカバヤシさんの証言映像の画面 証言映像コーナー
証言映像コーナーでは、ハワイ在住の2世、ジョージ・ヒデオ・タカバヤシさんが軍隊時代の思い出などを語っている(真ん中のスクリーン)

溶け合うのがハワイ流

現在、ハワイの日系人家庭には6世までが存在するといいます。大家族の写真(このページの上部参照)には、さまざまな人種が混ざり合い、溶け合った姿を見て取ることができます。日本人移住者、日系人がたどってきたハワイでの道のりが、いまあるハワイ文化の大切な一部分を作り上げてきたからこそ、私たちはハワイに特別な親しみや温かさを感じるのかもしれません。

「ホレホレ節」を聞いてみよう!

 初期の移住者が働いたサトウキビ畑。炎天下のなか、サトウキビの鋭く尖った枯葉は容赦なく皮膚を傷つけます。想像以上に厳しい労働のなかで、歌うことによって気を紛らわせ、お互いを励ますために、日本人移住者たちのなかから自然に生まれた労働歌が「ホレホレ節」です。
  「ホレホレ」とは、サトウキビの枯葉を手で掻き落としていく作業を指すハワイ語で、歌われた内容は、プランテーションでの厳しい生活や将来についての不安、ふるさとを懐かしむ思いなどでした。

ハワイ、 ハワイと夢見てきたが
流す涙は甘庶(きび)の中
行こか メリケン* 帰ろか 日本
ここが思案の ハワイ国

今日のホレホレ 辛くはないよ
昨日届いた 里便り
横浜出るときゃ 涙ででたが
今は子もある 孫もある
ホレホレ節
サトウキビ畑の労働風景の展示コーナーでは、 ヘッドホンで「ホレホレ節」を聞くことができる

*「メリケン」とは、「アメリカン」がなまったもの。この歌詞は、サトウキビ農園での契約から解放され、アメリカ本土に渡って新しい職を探す者や、日本へ帰る者が現れるなか、自分の進路を決めかねている心境を歌ったものです。

 
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